[ NewData 陰陽 ]

LIVE & SAKE 陰陽 1

ライヴハウスオーナーであり、
ミュージシャンであり、滝マニア
 「ぜひこのコーナーで紹介してくださいね!!」。熱心に薦めてくれたのは「RAG」の彦田景子さんだった。熱弁には理由がある。同店の店主・山崎ゴロー氏は「RAG」のご出身。ミュージシャンでもあり、これまでの当コーナーとは少々勝手が異なる。
 ロッキー山脈に1カ月間滞在され、帰国された直後に取材を受けていただいた。海外のアーティストと交渉してきたというのではない、滝と闘っていたと言う。「ライヴハウスと同じぐらい滝巡りが好きで、ロッキーにはものすごい滝があるので。金と時間はかかるけど、日本の滝はもうほとんど行ってしまったから」。今回は389mの高さの滝で、水が落ちてくる真下の壁に触ってきたという。そんな大瀑布である。滝壺に落ちでもしたら確実に命に関わる。「危ないですよ(笑)。岩が一緒に落ちてくる可能性もあるわけで。日本だと慎重に立入禁止とか柵とかありますけど、向こうでは『caution』とか『danger』とか書いてあっても『この先に行くなら自分の命は自分で守ってね』という感じなんで、滝の真下まで行けるんです。ものっすごく怖いけど(笑)」。
 滝の魅力とは? 「それはもう、一に水量、二に水量。だからでかくないとダメですね。美しいとか、紅葉が綺麗とかではなく、圧倒的なパワーを感じたいんです。だから100m単位の滝でないと満足できない。流れが雪崩のようにスローモーションで落ちてくるのを見て、ドキドキっとして、どこまで近づけるか」。
 滝巡りを始めたのはここ15~16年。元々は小学校の修学旅行で日光に行ったことに遡る。アウトドアが好きな先生が、行く先が滝ばかりだった。「ウルトラマンの怪獣が山から出てくるシーンがあるじゃないですか。そのシーンと滝がシンクロしたんですね」。怪獣と同じスケール感、大きいものが「動いている」パワーにインパクトを受けた。そうこうしているウチに音楽にドップリになり、滝の存在すら忘れてしまっていたが、「RAG」時代に「あまりにも働きすぎだったので温泉にでも行きたくなってね。で、たまたま滝の看板を見つけて思い出したんですよ。『あ、オレ滝が好きやった』と(笑)」。今なら車もある。子供の頃より金もある。それからは狂ったように滝を巡った。同店のオーナーになってからは2週間や3週間の旅をするようになった。地元の観光局や大使館から資料を集め、現地でも情報を収集する。
 その旅の様子を想像するに、何とはなく過去に当コーナーで紹介した「富士オデッセイ」の頃の人々の思考がラップする。東洋に神秘的な何かを感じ、欧米からオリエントに意識が向いた時代。そのプリミティブな行動原理に、何となく似ている。それは誰もが持っていてしかるべきものなのだろうが、特に音楽に携わる者には大切なのではないかと思うのだ。
バンドの初ステージは小学生の頃
卒業式も体育館でライヴだった
 ’62年生まれの山崎氏の出身は東京世田谷。中学3年生まで過ごした。小学校6年生から中学1年生で既にバンドを組んでいたという、音楽に関してはかなり早熟である。山崎少年には得がたい友人がいた。そもそもバンドを組んだ、いや組めたのはその友人がいたからだった。「ませた友人ばっかりで、その中に金持ちがひとりいて、家にエレキギターからドラムセットから全部あるんですよ。豪邸のガレージで練習してました(笑)」。友人はドラム担当。「ライヴもやってましたね」。小学生がライヴ? 「学校の体育館とか。何せPTAが後ろについてましたから(笑)」。その友人の母上が「マネージャーみたいなもの」だったらしい。「小学校の教室を借りてオヤツ付きのコンサートとか(笑)」。小学校の卒業時も体育館でコンサートだった。「気持ち悪いでしょ?(笑)」。全員で合唱ではない、卒業式の壇上に5~6人だけである。特別扱いも甚だしい。そう、山崎氏はステージの下でも裏でもなく、上に立つ人だったのである。
 別々の中学になったメンバーもいたが、それでも続けたバンドも程なく解散せざるを得なくなる。「理由は声変わり(笑)。ポールやジョンの声が出なくなった(笑)」。ビートルズのコピーバンドを組む、何とマセた子供たちであったことか。だがその魅力的な友人たちと仲良くなりたいために、必至でギターの練習をした。少年の純粋さは、驚くべき早さで上達を生んだことだろう。時に’75~’76年。時代観的には、ブリティッシュロックが下火になり、「T.REX」らのグラムロックが台頭してくる頃だ。とは言え小学生か、入学したての中学生である。日本の歌謡曲に興味を示しそうなものである。それこそ歌謡曲全盛の時代。「’73年に五木ひろしの『夜空』がレコード大賞を獲って、’74年が森進一の『襟裳岬』、’75年は布施明の『シクラメンのかほり』だったかな。その頃は一番日本の歌謡曲が面白い時代だった。西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎の御三家が全盛期。沢田研二に麻丘めぐみ…。あの頃はまだ演歌と歌謡曲の区別がなかったんですよ。今は森進一と言えば演歌と思われるけど、『襟裳岬』なんかはポップやし、五木ひろしもそう。野口五郎にしろ、デビューは演歌と呼べるものだし。あまり枠組みがなかったですね」。
 その時代に洋楽を聴く子供である。「浮いてましたね(笑)」。それはそうだろう。だが不良というわけではなく、一目置かれる浮き方であった。モテもした。これがもう少し前の世代であれば、ギターを持つだけで不良と呼ばれる世代だ。「声変わりさえなければねぇ(笑)。でもどっちにしろ中学3年で大阪に引っ越してしまったからね。そのドラマーも滋賀県に越してしまったし」。
東京から大阪へ。機材環境よりも
人のレベルが違いすぎて宅録の日々
 大阪に居を移してからも、バンドは続けようとしたが、レベルの低さに愕然として「一緒に組めるヤツがいなかった」。結局高校の3年間もバンドとは無縁の生活になった。なまじ極端に恵まれた環境にいたための不幸と呼ぶべきか。結局、3つ年下の弟氏とふたりで腕を磨いた。「僕がギターを教えたんやけど、弟の方がものすごく上手くなってしまいよって、仕方なくベースに転向(笑)」。鬱々としながら、延々とふたりで多重録音の日々。多重録音といってもラジカセを二台並べて、カセットテープでオーバーダビングを繰り返す原始的なものである。「ドラムなんかないから、その辺にある箱を叩いたり、シンバルがないからノコギリを叩いたり(笑)、何かを表現しようとはしてましたね。あのころMTRがあったら最ッ高に嬉しかったでしょうね」。
 その頃、’77年から’78年あたり、弟氏と聴いていたのは「ビートルズを卒業して、普通にディープ・パープル、レッド・ツェッペリンに行って、そこからキング・クリムゾンに行って、イエス、ジェネシス」といったバンドだった。「ジェネシスはピーター・ガブリエルがヴォーカルだった頃。フィル・コリンズになってから世界的に有名になったけど、その前。僕らに言わせるとフィル・コリンズなんかジェネシスじゃないんですよ。あんなもんアメリカを意識した単なるポップスですから。当時のイギリスのプログレッシヴ・ロックのバンドがこぞってアメリカを意識して進出を狙って、面白くなくなったんです。音がキレイになって、コーラスとシンセサイザーがばりばりになってね。それよりも前のブリティッシュのゴリゴリなプログレが好きでしたね。ボヘミアン・ラプソディは良いけど、長髪を切って髯をはやしたフレディ・マーキュリーもクイーンじゃない」。今、我々がこれらのバンドの代表曲として知っている楽曲は、全て「面白くなくなってからの曲」ということになるという。’80年代に入ってしまうともっと悲惨である。「デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ワム? もうダメですね。その頃が音楽事始めの世代は可哀相(笑)。MTVとかが流行って、ヴィジュアルが重視されてきた頃ね。全然面白くない」。
興味も時代もジャズ・フュージョンへ
「かねてつおかげさまブラザーズ」参加
 バブルで浮かれた時代と言うには少し前。掴み所のない、どうにも中途半端な時代だった’82年に大学進学で京都へ来た頃には、全くロックを聴かなくなっていた。「ジャズ、フュージョンにドップリ」。プログレッシヴ・ロックというテクニックに特化したサウンドを聴くと、やはりそこへ行く。大学時代はジャズとフュージョン、そしてルーツっぽいブラック・コンテンポラリー。「パティ・オースチン、ランディ・クロフォード、クルセイダーズ、クインシー・ジョーンズ・オーケストラ…。やっぱりちょっとジャズが入ってる感じですかね。ディオンヌ・ワーウィック、ミニ・リパートンとか。懐かしい」。ディスコを熱狂させたアース・ウィンド&ファイヤー、クール&ザ・ギャングといった流行のソウルも「バンドマンとしてディスコで演奏しましたよ。『マハラジャ』とかで。一瞬だけですけどね。大学生の頃にそういうのをやりながら、既にベースでメシ食おうと思ってましたから」。大谷大学に在籍した頃、少し上の世代で、京都産業大学出身の「イタチ(後のトップス)」や、「ジャマイカ」「アフリカ」といった大人数で、ホーンセクションとかがある京都のバンドには影響を受けた。「ローザ・ルクセンブルグのどんとも同じ世代です。『どんとっていう変なヤツが京都をウロウロしてる』っていう話をしてましたから」。大学でも軽音楽部でオリジナル曲をつくり、「あとは『ベースを弾きたい』ってあちこちに貼り紙をしまくって、話がきたら取りあえず行って『あぁ、こんなんおもろない』って言うて帰ってくる(笑)」。そして「かねてつおかげさまブラザーズ」というバンドに参加。「京都を中心に活動してたコミックバンドで、東の『爆風(スランプ)』西の『かねてつ』って言われましたね。だから爆風スランプとか聖鬼魔IIとかバービーボーイズとか、あの辺とは仕事しましたよ。『チキンジョージ』『バナナホール』『バーボンハウス』、京都は動員数や音質を考えて『BIG BANG』に絞ってましたね。常連でした」。ちなみに、今でこそインディーズレーベルという言葉は当たり前、むしろ主流のように言われるが、当時は「自主制作」という言葉を使っていた。「そうそう、自主制作の第一号ですからね。世間で取り沙汰された最初のバンドがその『かねてつおかげさまブラザーズ』だったんですよ。つくったシングル盤のレコードが、日本で初めてだって言われましたよ。報道番組で取り上げられましたから」。自主制作やインディーズという言葉の黎明は、筋肉少女帯や有頂天らの「ナゴムレコード」であろう。それよりも前の話であるから、インディーズレーベルの正しい定義も定かではないし、正確なところは解らないが、日本第一号であったのかもしれない。’86年までは、全くもってミュージシャンの側の人なのである。「『RAG』が北山の『JAZZ SPOT RAG』だった頃に、そこでバイトしながらバンドしてましたから」。ここでようやく接点が生まれる。
「LIVE SPOT RAG」との邂逅とバトル
言うこと聞いておけばよかった(笑)
 ’81年に「LIVE SPOT RAG」がオープンし、その初期からスタッフとして働いた。後に木屋町に移転し「LIVE SPOT RAG」となる、その初代店長が山崎氏だ。京都のライヴハウスを追いかけるという当コーナーとしては、ようやくここからが本筋だと言っていい。「須田社長と大喧嘩して(北山時代の『RAG』を)辞めたんですけどね(笑)。『二度と来るな!』『おぅっ、二度と来るか!』って(笑)」。立場が下の人間を踏み台にするより、立場が上の人間に噛みついた方がいいと思っていた。「だからこの店を造った時には戸惑いましたよ。噛みつかれる側になったのに、噛みつくヤツがいないぞ、と」。後にこういう感想を抱くことになるのだが、それは少し後の話だ。
 ともあれ、辞める辞めないの大喧嘩の理由はこんな様子だった。「お互いに溜まってた部分もあるんやろうけど、キッカケは下らないことですわ。良く憶えてますが、京女のパーティか何かが入ってて、当時は須田さんを『ラグのマスター』で『ラグマス』って呼んでいて、『この日は正装をして来い』と言われたんですね。正装っていう意味が今ひとつピンとこなかったから、普段着で行ったら『帰れッ!』みたいな(笑)。それが’84年とか’85年とか。そもそもバイトしようと思った理由が、京都で一番ジャズで有名な連中が集まってる店だったから、そいつらと仲良くなりたいっていうことだったんですよ。『ナニワエキスプレス』の連中、東原力哉さんとか、清水興さんとかとも仲良くなれたし、大学の軽音楽部長もやってたから、追い出しコンパのゲストに力哉さんを呼んで得意げやったりしてね。今から思えばそんな世話になってるんやから、もうちょっと言うこと聞いたら良かったのにね(笑)」。
to be continued…