U☆STONE 1

ごくローカルな立地に建った一軒
メディアのトップシーンより来る
 世の中には、メディアと呼ばれるものがいくつかある。直訳すれば「手段」や「方法」という言葉になるが、特に現在では、「情報媒体」や「伝達媒体」として使われる。新聞や雑誌、本誌も含めたペーパーメディアや、テレビやラジオなどの電波媒体である。
 滋賀県は石山駅のほど近くに現れた同店は、その電波媒体のトップシーンの裏方で活躍した人物をオーナーに持つ。オーナーの川本勇氏は、ご当地の「びわ湖放送」や「KBS京都」という放送局でも、地元の顔として有名である。現在も大阪に「U☆ROCK」というテレビの制作会社を経営しており、テレビ番組のクレジットにその名を見ることができる。「まぁ『ユウさんがロックしてる』っていう簡単な名前やけど(笑)」。 同店の名前は「ユウさん」が生まれ育った「石山」にあるという意味で、「THE ROLLING STONES」の名にもかかっている。他にも「YOU・TONE(=あなたの音色)」というギミックも隠れていて、「自分でもえぇ名前やと思ってる(笑)」。
 10年ほども前になろうか、ご本人の歴史の中で、最も大切なアーティストを挙げてもらったことがある。それは「サイモン&ガーファンクル」だった。「そうそう。アコースティックギターが大好きで、基本は弾き語り系。’60年代半ばから’70年代の頭にかけてのポール・サイモンとか、ボブ・ディランとか、ニール・ヤングとかいうのを聴いて育ったからね。弾き語りから始まって、バンドにつながった」。
 一方ではビートルズやストーンズらのロックが圧倒的なパワーを持っていた時期である。「確かに。弾き語りをしながら、どこかにずっとストーンズを憧れてた部分はある(笑)。いつかはバンドであぁいうのをやりたいというのが(笑)」。
 現在、自身が結成している「U☆TIME BAND」がその結晶であるという。自身が出演してきたライヴハウスは「RAG」や「都雅都雅」であり、なるほど、その音源に合っているような気がする。「『other side』っていうライヴハウスがあってんけど(注・京都市中京区河原町BAL筋にあったライヴハウス。’04年5月に閉店)、当時は京都府立病院の近くにあったんやけど、すごく良いライヴハウスで、そこでもやってた」。
 当時は今と比べても、それは多忙を極めたであろうが、テレビ番組のプロデュースをする仕事の傍ら、ライヴ活動を続けている。

事始めはディランやヤング
「バンドは社会である」という発想

 ディランやヤングの弾き語りか、後に「CCR」や「T・REX」につながっていくロックか、そのどちらをとるか。本コーナーでも何度も語り、声をいただいた方も何人もいるのだが、ではその当時のリアルタイムを生きた人たちにとって、その分かれ道はどこにあったのだろうか。「それはまぁ巡り会いのもんやから。ただ、後にバンドを組んだことで、社会づくりになっていって、それが人生を豊かにしてくれたっていうのは思うし、こういう(「U☆STONE」という)ライヴハウスをつくることにも絡んでくるけど」。
 バンドが社会である。この発想や発言は今まで目にしたことがないものだ。最小単位の社会=家族、という言い方がされるわけで、当然と言えば当然だが、氏のこの考え方はこの後も大きく、そして深く関わってくる。
 「ストーンズがムチャクチャ好きなところは、アコースティックもやるんやね。全編ストレートなロックで押しているようで、彼らの利口なところはディスコサウンドが流行ったら、ちょっとディスコに傾倒した音をつくったり、アコースティックロックが流行ってる時は、『 Beggars Banquet 』みたいなアルバムを出してる。ビートルズが『SGT.PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND』を出したときは、『Their Satanic Majesty’s Reques』という録音技術にすごく凝った大失敗作を出してるし(笑)。彼らはすごくブルース・ロックをやってるように見られてるけど、結構流行によって上手くビジネスラインに乗ってきたアーティストやった。それがすごい好きでね。今、自分でライヴをやっても全編ロックじゃなくて、途中で弾き語りを挟んだり、尺八を入れてみたりっていう一本調子じゃなく、言ってみればずるく(笑)、色んな人と一緒にできるようにしてるしね」。

「不良ではなく、「礼儀正しさ」
格好良さだけでなく、賢さを持て

 ストーンズはロックという雛形を持ちつつも、サブステージでアコースティックをやってみたりというエッセンスを持っている、と。それが「人を惹きつける格好良さ」であり、「賢さ」でもあるとういのだ。「『不良や不良や』と言われながらもお利口さんというか、ミック・ジャガーは大学に行ってたり、結構お坊ちゃんで、周りのことを解りながら、計算もできながらロックをやっていたから」。
 その「器用さ」のようなものも、バンドやライヴハウスにとっても必要なものである、と。非常に興味深い。バンドやアーティストが、原体験的に心に染みついた音から逃れられないというか、それが当然のようになるのは解るが、ライヴハウスをマネージメントすることにも、原体験で得た音やその在り方から影響を受けている。逆に言えば、氏はローリング・ストーンズというバンドに出会い、音とともに、ひとつのビジネスケースを追っていたということになる。
 現在のミュージックシーンの多くがそうであるような、一極集中型とは大きく意味を異にすると思われるが、この「ビジネスラインに乗ること」というテーマも、これまでの氏のテーマやポリシーのようなものに、今も深く関わっている。
 「ウチに来る子たちにも、『ロックは不良しかやったらアカン』とか、『エレキは不良にしかできひん』とか、ではない、と(笑)。基本的に礼儀正しくて(笑)、大人と上手いことやって、社会と上手いことやって、その中でできる限り自己表現をする、っていうことは伝えていかなあかんと思う」。
 これもまた非常に興味深い。「ロックやエレキは不良がやること」というのは、幾時代も前に言われたことだと、そういうスタンスで扱ってきた。だが本コーナーでご登場いただいたライヴハウスやクラブの方々が、口を酸っぱくして「挨拶や礼儀が基本である」と言い続けてきたのは、「それができないヤツが多い」からではないか。挨拶や礼儀ができる人間を「お利口さん」とするならば、それができないのは「不良」だ。その中で、氏の言うバンドの基本には新鮮さを禁じ得ない。

「カラオケ」という怪物が登場した
’80年代という時代に何があったか

 川本氏は大学卒業後、テレビ番組などの制作会社に入社し、’80年代の中頃には関西では知らぬ者がいないであろう、「4時ですよーだ」という番組を演出していた。バブル絶頂期の当時、関東・中央では「夕やけニャンニャン(’85年から’87年放映)」というとんねるず、田代まさし、デーモン小暮閣下、逸見政孝などをパーソナリティに起用した帯番組が大流行していた。「おニャン子クラブ」と名付けられた女子学生の出演者たちが一世を風靡したのは有名な話である。当時の中高生たちは、学校から帰った夕方、こぞってその番組を観たものなのだが、その番組と入れ違うように中高生たちの耳目を集めたのが’87年から’89年に放映された「4時ですよーだ」であった。吉本興業のトップ・タレント「ダウンタウン」を世に知らしめた同番組は、今に続くお笑いムーヴメントの礎とも言えるもので、そのメインディレクターとして活躍したのが氏である。
 大手のテレビ制作会社に勤めていた20数年前当時、その会社が手がけていた番組の中には「ザ・ベストテン」があった。生放送の番組内で、関西の中継を請け負っていた。そんな歌謡曲のランキング番組全盛の頃、氏は仕事としてそういった日本のミュージックシーンのひとつと接していたことになる。
 「『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』…、いろいろあったよね。関西の放送局も中継を出していたしね。僕が会社に入った頃は、そういう仕事を会社が受けていた。’70年代末からのソウルとか、それもいろいろあったよね。打ち込みが流行りかけたりもしたし、カラオケが流行りだした頃でもあるから、大した腕がなくても音楽ができるようになる時代には突入してきてたよね」。そうだ、そうである。当時は8トラックのカセットだったが、「カラオケ」というとんでもないディバイスが登場したのもこの頃であった。今までこのカラオケについて言及が無かったのが不思議である。「歌を唄うこと」が、もの凄く身近になった時代に入るのがこの頃だ。「だからこそ、ライヴハウスでしっかりやることと、商業ベースでやるってのが、一番変わってきた時代じゃないかな」。それは、歌唱技術・演奏技術を問わない時代と言い換えても良いかもしれない。

個人として好きなサウンドと
仕事として見るサウンドと


  個人として好きなミュージックシーンと、仕事として見るミュージックシーン。それをどのようにバランスしていたのだろうか。
 「アコースティックギターの名手ではありたいとは思ってるねんね。今もそうやけど。でもそういう歌謡曲の世界っていうのは、ある程度パッケージされたテレビの中の虚像づくりに参加してたということで、個人の感覚としては観てなかったよね。テレビ業界もそういうランキング番組の時代がしばらく続いて、曲をつくるでもなく、演奏技術を問うわけでもなく…、そういうのがイヤで『想音楽園~アコースティック パラダイス』っていう音楽番組を立ち上げたりもした。鈴木雅之(RATS & STAR)さんと森川由加里さんの司会でね。当時まだアンプラグドなんていう言葉も言われてない時に、(出演者に)関西に来てもらって、アコースティックで音楽をやってもらって、スタジオでちゃんと録るっていう番組をしてた。それは『ザ・ベストテン』とかに対するアンチテーゼやったね。それは自分が(ミュージシャンとして)やってることと近いもので、大沢誉志幸さんやムッシュかまやつさんにギター1本でやってもらったりとか、それを生で観ながら、音楽少年が観たがるようなカット割りをする。ベストテンの中継なんかやと僕らが観たいと思うところなんて誰も録ってないから、ギタリストの左手とか、右手のソフトなタッチとか(笑)。あまり視聴率の高い番組ではなかったけど、業界筋では人気があった」。後に関西テレビで「夢の乱入者」という、ギタリストの渡辺香津美をホストにしたセッション番組が月1回放映されていたが、それに近いものだった。「そうそうそう! そのプロデューサーが観に来てた。『この番組、どうやってつくってるんや?』と(笑)」。

ランキング番組全盛の後に
色んな音楽の基礎ができたと思う

 その番組には、「BEGIN」や「真心ブラザーズ」など、当時新人に近かったアーティストも登場したという。なるほど、氏のルーツを考えれば、いずれもアコースティック・ギターを基本としたサウンドである。「そうそう。それを良いと思うことができた番組やったし。『BEGIN』のあの比嘉くんの声はビックリしたね。えぇグループが出てきたなぁと思って、来ていただいた。あの当時は石垣島から出てくるアーティストなんて珍しかったし。『恋しくて』っていうデビューシングルは、今から思うと『彼らの曲?』と感じる人もいるかもしれないけど、すごくブルージーで良かった。地道に沖縄音楽をやろうとしているところが、今の彼らのステータスやと思うしね」。
 ’80年代の後半から’90年代初頭にかけてランキング番組の後に、様々な「オーディション番組」が台頭し、雨後の筍のようにあらゆるバンドが出ては消えていったが、テクニックに裏付けされた音が今も残っているとも。「『真心ブラザーズ』にしても、ギターも上手いし、楽曲も良かった」。バンドブームやイカ天ブーム。メディアの功罪はある。「けど、あの頃に色んな音楽の基礎ができた感じはする。いろんなやり方のね」。当時の、数を打って当てる的な短スパン・大量消費の文化を、氏は肯定的に捉えている。それは消費ではない部分、つまり今に残る部分を見ているからだ。このポジティヴな発想も、今までの本コーナーではあまり見かけなかった要素かもしれない。

to be continued…