LIVE & SAKE 陰陽 2

サラリーマンの道を閉ざし
称号を受け継ぐことにした
 陰陽のオーナー山崎氏が、若かりし頃を過ごした「Jazz Spot RAG」とケンカ別れしてから4年、その間に大学を卒業し、就職していた。残念ながら当初目指していたミュージシャンで食べていくことは諦めた。「親も安心させないといけないし」。就職した先は山科の「東急イン」。「ホテルの宴会産業に音楽を取り入れたくて、『せっかく宴会場があるのに、もっと設備を入れてやりましょうよ!』みたいなことを面接で話したらそれがウケて。でも事情が変わってフロントに回されました。2年ホテルで働いたんですけど先が見えないし、ただのサラリーマンになっていくだけやと思ったから」退職。いわゆるマジョリティの考え方ではない。悶々としているときに件の北山「RAG」が閉店するという話を聞いた。実際は移転なのだが、北山としては閉店である。「まぁオレの青春の場所やったからなぁ」。そう思って数年ぶりに訪れたところ、「ラグマス(「RAG」のマスター。現株式会社ラグインターナショナルミュージック・須田社長)と意気投合しまして。お互い丸くなってたから(笑)」。と言っても当時まだ25歳そこそこ、人生の内で最も血気盛んでも良いような歳だ。ステージの上に立ち、脚光を浴びた12~13歳の頃からずっと、思えば早熟な方である。
 時に山崎氏26歳。株式会社ラグインターナショナルミュージックという会社の設立と同時に「RAG」は木屋町に移転。会社の設立には全く興味がなかったが、とにかくライヴハウスがやりたかった。数年ぶりに飲み明かし、須田氏から「やっぱりオマエはバイトの中では一番印象に残ってるから、一緒にやらへんか?」という誘いに乗った。改めて「RAG」に就職。須田氏は「ラグマス」から「社長」に。そして「ラグマス」の称号は山崎氏が受け継いだ。
「アンチ・ジャズ」のラグマスとして2年
師弟関係は常に丁々発止だった
 山崎氏はそれから7年を「RAG」で過ごす。既に当コーナーで取材を終えているから、その性格は既にご紹介済みである。「そうですね、クロスオーバーやフュージョンというのの代表店になりましたよね。でもそれに反比例して僕がジャズやフュージョンが嫌いになって。演ってる人間が嫌いになったから。えぇ格好して、N.Y.の香りがするだとか何だとか、『 どこがN.Y.…?』と、二流三流のジャズミュージシャンを店から追い出したんですよ(笑)。社長にも『大して客も呼ばずにタダ酒ばっかり飲んで、あいつらを店にたむろさせてたら店潰れまっせ』とね。それで良い演奏してくれたらまだいいけど…」。
 そこで、夕方の時間をもらってジャズ以外のアマチュアバンドをブッキングしたら、見る見る営業数値が上がった。アマチュアバンドと言っても、いわゆるバンドブーム以前であるから、誰でも彼でもバンドという時代ではない。優れた目利きが必要だった。「ロック、ポップス、ブルース…。ずっと京都で音楽活動をやってたわけですから、友人知人にあちこち声をかけて。『夕方の演奏なんてしたくないわ』という声も多かったけど、『待ってくれ、とりあえずやってくれ。この店の体質を変えるから』とね(笑)」。結局はこの師弟関係は常に丁々発止、バチバチと火花を散らし合う仲だった。結局は夕方の部から夜の部へ、月曜から木曜の平日だったものが金・土・日曜へと、アマチュアバンドはゴールデンタイムへ進出していった。
大御所の名前ありきのブッキングと
猛獣相手のストレスが限界に…
 しばらく順調にブッキングを行った。東原力哉を中心に据え、昔から好きだったミュージシャンを呼び、須田社長とも相談して異種格闘技を企てた。鮎川誠、チャー、かまやつひろし、村上〈 ポンタ〉秀一と東原力哉のダブルドラムなんてのも企画した。そのうちに、ブッキングにあたっては今まで「誰ですか?」というような先方の対応だったものが、「あぁラグの山崎さん。いつもお世話になっています」という良い扱いに変わっていった。「それがまた面白くなくて(笑)。『RAG』っていう看板が一人歩き始めたなぁと。気がつけばメジャーになったんやなと」。普通で考えたら順風満帆でも、それが気に入らないのが山崎氏の人となりであるらしい。「猛獣使いに疲れたというのもありましたけど(笑)」と評する、ビッグネーム同士のブッキングと、時に傍若無人だったり理不尽な態度をとるミュージシャンたちに辟易したという側面もあった。「やっぱりスゴイ連中を呼ぶと、現場監督は大変。個性の強い連中の打ち上げなんて、酒が入ったら野獣同士の喧嘩になったりするわけですよ。僕の頭の上をシンバルが飛ぶんですよ?(笑)」。もはや命がけである。「いい加減に頭に来てね。『好き放題やりやがって。ここは託児所か!』と(笑)」。
 「そもそも僕はアマチュアバンドが出るライヴハウスをやりたかったから」。「RAG」でもアマチュアバンドの枠はもらえたものの、やはり大御所ミュージシャンを優先しなければならない。集客よりも大御所の名前に縛られたブッキングもストレスになった。そして遂に、決定的に袂を分かつ。「『オマエのためにもう一軒、アマチュア専門のライヴハウスを出すから』とまで言ってもらったんですけどね…。もう大御所とは嘘の笑顔では一言も喋れなくなって」。会社ではなく、個人店であることを求めた。
技術を越えたところにある一流
そのために、遂に個人店を決断した
 そしてこの「陰陽」を開店した’96年、自らも楽器を演奏し、技術を磨きに磨いてきたが、「テクニック重視というのは僕の中では終わりました」。それが辿り着いた結論だった。ミュージシャンからブッキングマネージャーに転身する中で、しかも当初は「こんな下手くそ聴いてられるか」とまで思っていた人物がである。「完成されたプロの人たちっていうのは、上手くて綺麗な音を出さないと話にならないんですけど、アマチュアバンドの連中っていうのは、死ぬほど下手でもものすごい個性があって、輝いてるものを持ってたりするんですよね。天然の、そんな魅力が解るようになってね。だから今、ウチに出てる連中なんかは下手くそな連中もいっぱいいますけど(笑)、関係ないんですよ。音楽をやろうという連中ならいいんです。ところが最近は音楽という殻を被って中身が音楽じゃないっていうのが多い。スポーツみたいなやつとかね。だからパンクとかハードコアとかは嫌い。あの辺は僕には音楽に聴こえない」。バンドへの小言や説教も嫌う。嫌うと言うより「どうでもいいとは言わないけど、こっちから言うことじゃないでしょう別に。失礼なことをされたら『悪いけど帰ってくれるか?』って言えば済むことで。説教しなければならないヤツなんて、説教しても無駄なんです」。このシビアさは経緯を知るからこそ理解もできよう。まず目指したのは一流の技術。そして諸々を乗り越えた一流を目指す。「技術を越えた一流の表現者であること」とでもいうべきか。
銘ライヴハウスの「バンカラ」上等
メシが食えて、酒が飲める場所を
 「 RAG」という出自を考えれば、どちらかというと「拾得」や「磔磔」に類似している店の造りは意外な気もするが、これもまた、通り抜けてきた全ての経験が生んだもの。「やっぱり『磔磔』や『拾得』はそうとう通いましたからね。すごい影響を受けてますよね。何というかバンカラな(笑)」。そんな思いもある。
 「営業的にはシンドイですよ。バンドマンたちの観てもらおうという意識が低くなってるし、頑張って人を呼ぼうという気もないし、タイバンの客を喰ってやろうという気もない。それでも、この空間が嫌な感じにならなければ良いんです」。その言葉は積み上げた歴史と、自らのキャリアに対する矜持に思えてならない。一国一城の主として譲れない、妥協できないものがある。そして今は、譲らなくても、妥協しなくても良いのである。
 ライヴと同じぐらい、同店の料理の美味さは評判である。弟氏が厨房を預かっている。「美味いですよ(笑)。昔から凝り性でね」。ちなみに「陰陽」という店名は、兄弟の役割に由来する。ブッキングや、表の仕事担当の兄、厨房や店内工事という裏方担当の弟。昔からそんな役割分担だったそうだ。弟氏の方がギターが上手くなり、「弟・ギター」「兄・ベース」になった以外は…。ともあれ、意味深な名前と思いきや、意外とシンプルなのであった。
 ブッキングマネージャーのの田中氏は「ウチのメシはホンマに美味いですよ。働き始めた頃は賄いが楽しみで来てると言っても良いぐらいでした(笑)」とまで言う。ライヴハウスの定義は、演奏が聴けることと、飲食ができること。「やっぱりメシが食えなきゃいかんでしょう。オープンにあたっては居酒屋とライヴハウスの融合を目指しましたから」。ライヴが終わった後に営業は続けるが、ライヴのない日は営業しない。ライヴハウスだから。大きなお世話だろうが、名代の「山の陰陽丼」「海の陰陽丼」をはじめ実に美味い料理に、「三岳」など焼酎の品揃えもなかなかのものだ(写真下)。普通に飲食店として営業しても良さそうなものなのに、絶対にしない。これも、プライド。
メジャーな連中がチラチラ見えない
京都は、本当は恵まれた環境だと思う
 今の音楽業界。そう、山崎氏に「ミュージック・シーン」という言葉は似合わない。今の音楽業界について、「日本のトップがくだらなすぎるからねぇ。あれを目指したって何も音楽性は高まっては来ないよね。今は『売れる』ということと『音楽のクオリティを上げる』ということとが同じどころか、むしろ逆ですよね。どれだけクオリティを下げて、幼稚園のお遊戯会をつくるか、みたいになってるから。今、『売れてる』ものを目指したら、そこで日本の音楽文化みたいなものは終わりですよね。クオリティを上げるほどお客さんは離れていったりするんだから。そういうヤツらにどうやったらお客さんが入るようになるかなんて、よぉアドバイスしませんからねぇ」。それは薄情という訳でなく、厳しいという訳でもなく、対峙するのが世の中全体の風潮のようなものだからだ。世間を丸ごと相手にするのは難しい。個人店の単店舗で営むライヴハウスという規模ではなおさらである。それでも挑んでいかなければならない。「クオリティを下げろなんて言えるわけありませんからね」。
 バンドや音楽をやっている者たちが、目指す場所を探しにくい。「でもね、東京とか大阪に比べて、京都は本当は良い環境なんですよ。やっぱり(目に見える範囲に)メジャーがチラチラしてないじゃないですか。東京だったらすぐ近くにいるわけですよ。だから『ちょっと頑張って音ネタつくってメジャーにプレゼン』っていうのが簡単にできる。京都って全くそういうのがないから。有名人がウロウロしてるわけでもないし。だからじっくり腰を据えて自分の音楽を追究できる場所なんですね。大学がやたらめったら多いし、全国から集まってきて、ここでバンドを組むと面白いのができるんですよ。頑固な良いバンドがね。だからそれをちゃんと発表させて、トップに繋いであげられるような場所があればいいんやけど」。
「トップ」と「メジャー」の差を知るべし
その為のシーンを、必ずつくるから
 バンド「ウォーラス」のベーシストとして、自らも時折ステージに立つ(ライヴ写真)。着座で60席、スタンディングで120人のこのライヴハウス。満席になればかなりの温度になる。この場所がトップを目指せる場所であらんことを。そう思いながら9年という短くない歴史を刻んできた。「全然順調じゃないですけどね(笑)」。経営戦略的ノウハウは潤沢と思うのだが「『RAG』で学んだ営業方法は、この店では絶対に使いたくないんで、封印してます(笑)」。
 一番欲しいものは、テレビ番組。もちろんゴールデンタイムなんかじゃなくていい。「こういうバンドばっかり集めて、ランキングをちゃんとして、番組をつくって、『これがホンマの主流ですよ』と。今のテレビで流れてるのよりよっぽど面白いと思うし」。山崎氏は明確に「メジャー」と「トップ」という言葉を使い分けている。「トップに君臨すること」と、今言われる「メジャーにいること」は違うということだ。ここで繰り広げられている音楽を知らしめたい。そしてクオリティが高い音楽が売れなくなっていくという訳の解らない状況を打破したい。今の「ミュージック・シーン」は「音楽」ではなく「パフォーマンス」であると伝えたい。世の中には「音楽」があることを伝えたい。「『アンダーグラウンド』っていう言葉は欲しいし、それは良いんですよ。そういうシーンが欲しい」。
 来年やっと10周年。7月24日にその日を迎える。ライヴやイベントに関して、あまりこちらから声をかけるやり方はしないが、来年はガンガン派手にやっていこうと思っている。「『これが京都アンダーグラウンドシーンなんやっ!!』ってね」。
 それが圧倒的な水量が生む、滝のエネルギーに負けないものであることを祈りたい。その音を聴いて、山崎氏が、そして観客たちが引き込まれずにいられない引力を持つような、そんな温度が、この「磔磔」「拾得」にヒケを取らない場所に満ちていることを祈りたいと思うのである。