KYOTO CLUB METRO 1

その日N.Y.のとあるクラブで
とある人物が目にした光景
 「ハコ」という俗称を、当コーナーではあまり使わずに来た。京都のミュージックシーンを追い、取材対象が「ライヴハウス」であるという前提で進めてきたためという事もあるのだが、今回はライヴハウスというにもクラブというにも、等しく語弊が出そうなのでこの俗称を使うことにする。’90年オープンの同店を語る前に、まず同店が属する組織から説明を始める必要がある。
 時は遡って’82年。先頃オリジナルメンバーで再結成した「DURAN DURAN」が「Hungry Like The Wolf」をヒットさせ、イギリスでは他にも「CULTURE CLUB」「KAJA GOO GOO」などが台頭しだした頃。日本では「機長やめてください」「ルンルン気分」が流行語だった。
 この年、日本で初めて、ジャマイカ直行ツアーの飛行機が飛んだ。その中に同店オーナー・ニック山本氏の名前がある。ツアー仲間には一級建築士の座を捨ててジャパニーズ・レゲエの祖となった「RANKIN TAXI」、京都に縁のある人物では谷口久兵衛自転車店の谷口氏、「Cook A Hoop」の前オーナー・佐藤氏らの名前もあったという。ツアーを組んだのは「ISLAND TOUR CENTER」という組織で、旅行代理店でもあり、レゲエイベントを企画する組織でもあった。現在はアーティストのマネージメントもこなしているという。「ジャマイカはアフリカにあると思ってたヤツも絶対いたと思う(笑)」というぐらい、あまりに一般的ではない時代の話である。
 ニック山本氏は団塊の世代。ロックやブルースに傾倒したが、「初めて聴いたあのレゲエのウラ打ちのリズムは衝撃的だった」と述懐する。関西電力に勤めていたが、脱サラ後N.Y.とジャマイカを行ったり来たりという生活を3年ほど続けたという履歴を持つ。当時のN.Y.には既に成熟したクラブシーンが当たり前のようにあった。「スタジオ54」「ダンステリア」「パラダイスガレージ」…。日本よりはるかに多種多様な音・スタイルでクラブという文化、ニック山本氏の言葉を借りれば「新しいムーヴメントが咲き始めていた」N.Y.であった。
 そんな氏が、どうしても行きたいが、そこへ辿り着くには「三途の橋」と呼ばれる橋を越えなければならなかった一軒のクラブがあった。ハーレムの最も危険なエリアにあるそのクラブの名は「ファーストクラス」。ブレイクダンスの発祥地と言われるクラブである。
 ある日思い切ってその橋を越えた。ビンを投げられ、危ない思いを繰り返し辿り着いたそのクラブで目にした光景は、今でも鮮明に憶えている。むしろ忘れようのないものだった。5mほどの輪を作り、その輪の中で一人がブレイクダンスを踊る。一人が終わればハイタッチで次が輪の中から現れる。それが延々と繰り返される様子は、そのまま映画になりそうだった。いや、映画を観ているようだった。この1日がなければ、ひょっとしたら、このメトロというハコは生まれていなかったかもしれない。
 「ショックを与えて返せ」。そしてこの言葉が、同店の経営指針であり、自戒となった。
’80年代のレゲエとN.Y.と
オープンの遠因に見る意外性
 レゲエカルチャーとN.Y.のクラブカルチャーが同店誕生の遠因であった。そして’86年、帰国したニック山本氏は木屋町に「RUB A DUB」というジャマイカンバー・レストランを開ける。世の中はようやく第二期ディスコブームと呼ばれるディスコ全盛期を迎え、先述のブリティッシュ系「ニューロマンティック」サウンドからユーロビートへと移行。レゲエ・ブームはまだその後だ。
 さらに同社は’88年・大阪にクラブディスコ「DYNAMITE」、’89年・塚口の西武つかしん内にカリビアンレストラン「CAPTAIN AMINGO」、’90年・大阪の土佐堀にクラブディスコ「PARANOIA」と、矢継ぎ早な展開を見せた。同店がこれらのクラブと同系列だという事実にも、驚かれる方がいるかもしれない。それらの店に、前述のN.Y.のクラブをニック山本氏が重ねて見ていたのは言うまでもない。
 そしてこの頃、ようやくレゲエが耳慣れてくる。「ボブ・マーリー」「ジミー・クリフ」を筆頭に、「シャインヘッド」「アスワド」「ジャネット・ケイ」「インナーサークル」「ビッグマウンテン」「スノウ」「UB40」…。野外のレゲエイベントが始まったのも同じ頃だ。
 「PARANOIA」オープンのわずか1カ月前、’90年4月に京都でオープンしたのが、この「KYOTO CLUB METRO」である。
いくつもの「クラブ」の盛衰と
それぞれが変容していく中で
 同店の歩みと歩調を合わせるように、「ライヴ」という言葉の代わりに、「イベント」という言葉が使われだしたように思う。今では「イベントの中にライヴが組み込まれる」ケースが多い。ブッキングマネージャーの林薫氏は言う。「20センチぐらいですけど(笑)、ステージがあったんで、よくライヴはやってたんです。よそのクラブは殆どステージはなかったですからね」。
 この時期、「container」「GARDEN」「mashroom」「collage」といったクラブが相次いでオープンし、京都のクラブシーンは一気に加熱していく。その後も「Lab.Tribe」「WORLD[世界]」…、様々なクラブができ、いくつかはなくなっていったが同店だけは常にここにあり、そして他のクラブと比較される存在であり続けた。
 京都のクラブ・シーンそのものが黎明期。林氏は言う。「そんな時代ですから『クラブたるのものは?』という議論はあっても、定義はないようなものですが、N.Y.のハウスのクラブの文化が強かったと思います。サウンドシステムにお金をかけて音圧で遊ばせる。芝浦にあった『GOLD』などもそうですね」。世の中はレゲエ・ブームを一通り乗り切り、代表的なところでは、TOWA TOWA(現在のTEI TOWA)が参加したユニット「DEE LITE」らを代表とするハウス・ミュージックが流行の兆しを見せていた。アシッド・ジャズなるジャンルが取り沙汰されるのはその直後のことで、その頃デビューしたアーティストが「Us3」や「JAMIROQUAI」(いずれも’93年)らである。
「MONDO GROSSO」と
「KYOTO JAZZ MASSIVE」と
 オープン年、同店が初めて迎える秋にとあるベーシストが「ライブをやりたい」と言い、とあるDJが「イベントをやりたい」と言ってきた。共にジャズに深く関わるサウンドだという。「(ライヴにしろイベントにしろ)ジャズで踊る?」と正直思わなくもなかったが、既に’80年代の中頃のロンドンにはダンス・ジャズ・ムーブメントがあった。
 ジャズを元に、ニューウェーブな音を刻むベーシストが率いるそのバンドと、ロンドンのアシッドジャズ・シーンとリンクするように現れたDJ。彼らこそ、後の「MONDO GROSSO」大沢伸一と、「KYOTO JAZZ MASSIVE」沖野修也であり、その合同企画のイベントに連れて来られたのが「ORIGINAL LOVE」の田島貴男であった。
 「アシッド・ジャズと言っても、何曲かはイイのを鳴らしてもその他はジャズの上っ面を舐めるようなDJが多かった中、大沢伸一というビートメーカーが、サックス・ラッパー・ムチャクチャ叩けるドラマーを従えて、すごいニュアンスのあるアーティな音を出していたんです。で、一回目のステージでは自分たちの曲をやって、深夜2時ぐらいにセッションをやるんです。音楽というのはこんなエネルギー交換、スリリングなせめぎ合いがあるのか、と」。いわゆるジャムセッション。主にジャズの世界で言うインプロヴィゼーションである。林氏は音楽の可能性を痛感したという。
 ちなみに「MONDO GROSSO」のサックスプレイヤー・中村雅人氏は、「RUB A DUB」の元スタッフであり、メトロの初代店長である。普段からサックスを持ってカウンターに立つような人で、突然ステージに飛び入り、「面白いヤツがいるなぁ」と大沢氏に誘われて共に東京へ発ってしまった。「その後も兄貴分のスタッフはバリに行ったきりになるし(笑)」。当時20歳そこそこだった林氏が、いきなりブッキングマネージャーになった経緯である。
 「MONDO GROSSO」はバンド、「KYOTO JAZZ MASSIVE」はDJチームである。バンドの他に、ユニットもしくはDJチームという呼び名が出てくるのもこの頃だ。シーンの細分化・多様化の過渡期と言えよう。
様々な言葉と、様々な人々が
勝手に、だが必然的に繋がり出す
 ほぼ時を同じくして「サウンドトラックのイベントをやりたい」と言ってきた連中がいた。職業の別を問わず集まってきた中に、現在は京都で「ROMANZA」というサロンを経営する松山禎弘氏、当時京阪神エルマガジン社に勤めていた田中知之氏(現Fantastic Plastic Mashine)がいた。これもDJチームである。
 彼らのイベント名を「SOUND IMPOSSIBLE」と言い、それを見て「京都にも面白い人がいるんだなぁ」と感想を漏らし、後に親交を深めるのが小西康陽氏である。
 そしてこれもまた当時、VJなどという言葉が全く一般的ではない頃、京都工芸繊維大学で助手をしている人物が、映像をつくり、それをイベントっぽく、DJっぽく流したいと言ってきた。その人物こそ、’93年に小西氏率いる「PIZZICATO FIVE」のライブヴィジュアルを担当して注目を集める伊藤弘氏、後の「groovisions」であった。他にも「TEI TOWA」らが一気にそれぞれで繋がり出した。
 彼らの繋がりを目の当たりにした同店としては、「クラブとはアンダーグラウンドでクールで、というのは柄じゃなかった。グチャグチャ言われたくないからクラブと言ってるだけで(笑)。それなのに、入ってくる若いスタッフに『こんなのクラブじゃないです』とか言われると『うるせぇっ』と(笑)。そういう理屈が嫌いで。アンダーグラウンドでも、オーバーグラウンドでも良いと思ってましたから」。
 何をやっても良い。画に描いたようなクラブ像にはしたくないが、でも何か雰囲気があるのがクラブだと信じてやまない。
 「結局、それぞれが好きなことをやってたら、東京のメディアで取り沙汰されるようになって、田中さんたちが東京に行ってしまった後も若いコたちは京都に残っていて、その中に『ちょっといいバンドがあるんですけど』と言ってきたらそれが『the brilliant green』だったりするわけです。その頃、関西のソニーの新人発掘担当の方がDJでよく出入りして下さってて『お、このバンドいいじゃない』と。他にもビクターの新人発掘の人が、『くるり』を見つけたり」。
 友人のイベンターが「G.LOVE & SPACIAL SAUCE」をブッキングしてくれたこともある。「そういう風にポンッと決まるようなこともありましたね」。彼らはライヴ当日、入りきらなかった観客のために京阪電車の階段で弾き語りまで聴かせてみせたという。その成功を見た東京のプロモーターから紹介されたのが「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」だった。
 第一週土曜日に行っていた「DJモトクロス」というイベント。「今日はレゲエの日、ヒップホップの日というのが多かったんで『1日で全部のジャンルをやります』というイベントにライヴも入れだして『THEE MICHELLE~』をブッキングしたんです。そこに『the brilliant ~』も土曜日にやってみてもらおうかという話になって、同日にブッキングしちゃったという(笑)」。と、こんな具合に数珠が繋がり出すのである。
to be continued