Lab.Tribe 1

’90年半ばの、「画一化」という
時代背景の中から生まれた実験
 「日本レコード大賞」を連続で獲得した歌手はそう多くはない。近年では、’01年から’03年まで3回連続で獲得した「浜崎あゆみ」。古くは’82年と’83年の「細川たかし」、’85年と’86年の「中森明菜」。そして、’96年と’97年の「安室奈美恵」。さらに言えば、’95年の「trf」から’98年の「globe」まで、作曲はすべて小室哲哉である。以来、既におよそ10年が経つ。
 同賞が絶対的な判断基準になるかどうかは別として、世相を反映するひとつのモティーフではあろう。同店がオープンしたのが’96年5月10日。街には小室サウンドが溢れていたことだろう。その年に、そしてまたこのハコに、いったい何が起こっていたか。
 例えば「磔磔」というライヴハウスについて、「あそこには、何かおるねぇ」と評した、元「都雅都雅」の松井氏の言葉を借りるなら、同店には「何もいない」ということになる。恐らく今後も何もいないままだろう。店名を「Lab.Tribe」。カタカナで表記すれば「ラブ トライブ」。「ラブ」は「Love」の意味としてもあるが、本来は「Laboratory」、つまり実験室である。直訳すれば「実験種族」。同店はライヴハウスではなく、根本的な業種は「レンタルホール」。ここではライヴ(後述)、上映会、展示会など、あらゆる種族、つまり人に可能性が提示されねばならなかった。そのための真っ白な空間であり、サウンドシステムやバーカウンターを備えた「ホワイトキューブ」であった。
 ハコの用途だけを見れば「メトロ」でも同じようなことが行われただろう。もしかすると「磔磔」でもあったかもしれない。だが、既に培われた色がついた状態、もしくは「先々、色がついていく可能性」すら廃する必要があった。先述の日本レコード大賞に則する訳ではないが、当時は画一化の時代であったと、同店のオーナー大原義盛氏とプロデューサーの金正邦宏氏は感じていた。求められたのは対応力と柔軟性であり、どんなオファーにも応じられるマルチタスクであった。そのため、同店のサブタイトルは「フレキシブル・スペース・メディア」と命名されたのだ。
 メディアとは媒体である。それは何かと何かを繋ぐ役割を持つものであり、言ってみればペーパーメディアである本誌と同じだ。

自宅の近く、何となく眺めていた
そんなビルが現実的になってきた

 少々時を遡り、同店のオープン前に話を戻す。オーナーの大原氏は兄が全国展開するタイレストランの大阪店を開発運営していた。赤字を出していた訳ではないが、東京スピードで考える兄からは、さらなる売上げが求められた。そこで週末だけ、店舗の2階をクラブとして営業してみたところこれが盛況となった。名を「SPOON」と言う。その店のプランニングに携わったのが、先の金正氏や、後にオペレーションファクトリーの中核を成す人物たちである。
 その後、店を辞した大原氏は自宅に近い河原町二条のビルを、通りかかるたび何とはなしに気にしていた。聞けば伝説のグランドキャバレーがよみがえるのだと言う。詳しい事情は解らないが、その計画が頓挫したことを知った。「仕事してなかったからね。何かに使えへんかなぁ、と思ってね。考えたら、その時確実に結婚しそうな友達が4組いて、二次会やる会場がいるなぁ、と。あと8カ月を何とかこじつけたら月イチでイベントができると思ってね(笑)〈大原氏〉」。年間の営業日数が12日の事業計画など、正気の沙汰とは思えないが、実話らしい。ともあれ地下1階部分だけを契約までこぎ着け、大阪時代の面子と共にビルに入ると、寸前までグランドキャバレーのオープン準備が進んでいたらしく、「(干支にちなんだかどうか記憶も定かではないが、オープンのお土産ようと思われる)ネズミの置物や、ダンサーの衣装なんかがホコリまみれで山積みやった〈金正氏〉」。

「先進性」という概念であっても
継続すれば「不偏」と呼べる

 振り返って思えば、「画一化」の時代に同店のテーマとなったのは「先進性」だったかもしれない。もちろん、「磔磔」や「メトロ」のカルチャーを知った上で、京都や日本という枠にとらわれず、N.Y.や、その他海外のエンターテインメントを見て思ったこともあったのだろう。まだ「ビデオアート」と呼ばれた頃のVJを導入するなど、ポリシーである真っ白なキャンバスを余すところ無く利用した。「磔磔やメトロにはカルチャーがあったけど、まわりのライヴハウスを気にするということはなかった。ここはむしろ使い手が支配して良い場所。良い酒と、良い音楽と、人を繋ぐスタッフがあるところに何かが生まれるし、来る客が格好良ければハコも当然、格好良くなる。そういう意味では『使い手のセンスがより問われる』ハコと言えるかもしれない〈金正氏〉」。
 しかしながら、同店の中二階というか、ロフトのようなスペースには、実用可能なドラムのフルセットが宙に浮く形でディスプレイされており、いわゆるバンドサウンドを標榜する者には「生音」でのライヴに期待が膨らむものであった。多くの利用者は単に「クラブ」として認識していたかもしれないが、先述のとおり、レンタルホールという性格上、およそありとあらゆる催しが行われている。同コーナーの主旨に沿って、こと「音楽」というモティーフに関して言えばどうだったのだろうか。
 「画一化を細かく砕こうとするものが『カテゴライズ』だとするなら、さらにその先、『逆に一緒くたにしてしまおう』という感じはあった。いわゆる『ミクスチャー』というヤツ。メロコア+ラップとか、ダンスミュージックを思わせるロックとか。解りやすい例で言えば『Dragon ash』とか、後の『RIZE』とかね。ここにも荒削りなのが来てた〈金正氏〉」。同店でデビューレビューを行った「STONEDE SOUL PICNIC」というバンドは、リズム隊がDJによるもので、加えてギターとホーンセクションが存在していた。ユニットという言葉が広義になってきた時代だ。「SUNDAY LIVE BATTLE」というイベントは、インディーズバンドのオーディションを行うものだった。オーディションである以上、当落のラインがある。その基準はどこに置かれたか。「やっぱり行儀の悪いヤツ、マナーの悪いヤツはアカンね。他のライヴハウスさんの言う行儀とかマナーと全く同じかどうかは解らないけど。やっぱり上手い、下手以前に真面目に音楽をやってるヤツを大事にした。どういうことかというと、『音楽』と言うよりも、仲間と『何か』やってるノリはNGということ。ライヴのグルーヴ感に関わるしね。大切なのは志の高さやから〈金正氏〉」。

予定調和を主客共に許さない
「パフォーマンス」の定義

 ハコの性格、そして舞台に立つ者の選定。その数式は何を導くのか。それが「主客共催」というスタンスだ。それによって生まれるのが「オーガナイズ」という観念であるというのだ。それが同店が最も重要視するパフォーマンスという言葉に繋がっていく。ここで言うパフォーマンスとは、テクニック云々を言うものではなく、かといって「下手くそでも楽しそうなら良い」という自己満足で完結するものでもない。「場を上げる、会場ごと高揚させられることができる」ことである。舞台に立つ者、立たせる者。双方が主催者となることで、立つ者はテクニックの他に、パフォーマンスに必要なマネージメントを理解し、立たせる側はアテンドの他に、パフォーマンスに必要な技術を理解する。誰もが「何かを期待して」いるのではなく、「見つけに」来る。そこに予定調和という概念は皆無でなければならない。
 「DAIGORO」はフォーク色の濃いサウンドで、ストリートミュージシャンとして、一人でオーガナイズを行うようになった。その頃、世間では「ゆず」が流行の兆しを見せていた。ポスト「PIZZICATO FIVE」と評された「YES MAMA OK?」もそうだった。「CHRISTOPHER ROBIN」は「The Cardigans」全盛の頃のスウェディッシュ・ポップの匂いを持っていた。有名なターンテーブル前に立つ芸妓のDJシーンのポスター。その正体は近年、藤井フミヤ氏にプロデュースされたシンガー「MAKOTO」である。
 同コーナーで「ライヴ」と称すればそれはバンドやシンガーが行うものを主に指してきた。だが同店では「それは音楽だけじゃない。『トーク』も『ヘア』『ファッション』もある」と定義される。そう言った意味で、実際の利用頻度としてはDJによるライヴが多いのは確かである。「藤原ヒロシ」「ケンイシイ」「電気グルーヴ」、先に弊誌でも紹介し10周年イベントを同店で行い、去る2月22日にアルバム「imaginations」をリリースした「FPM」…、錚々たる名前が並ぶ。
 だが、先のミュージシャンたちの傾向を鑑みれば、限られた数であるが故に、逆にミュージックシーンのの流れがよく解る。
 事あるごとに「メトロ」との比較になってしまうが、「メトロを『from京都』という、濃厚な京都カルチャーの発信地とするならば、ここはワールドワイドでグローバルなスタンスの『to京都』と言えるかもしれない。それにしても、トライアルとかそういう言葉ではなく、『実験』という言葉にどうしてもなる〈金正氏〉」。

キャンバスに布は掛けられた
それはあまりにあっけなく

 終わりは、あっけなかった。少なくとも、傍目には。そしてそれもまた、時流である。ずいぶん前に終焉を迎えたバブルではあったが、物件管理に関する限り、オーナーが変わり、付随して契約条項が変わるなど、諸問題は後を絶たなかった。皮肉にも同店はその時流にも乗ることになってしまう。
 恐らくオープン自体が「実験」であった同店は、順調な成長を続け、営業的にはピークであった’00年、突然終わりを告げた。
 この真っ白なハコは、以後数年に渡って完全に沈黙するのである。
to be continued…