[四天王記] 天下一品 編
どこにもない、何ものでもない
オリジナルの中華そばへの挑戦
[天下一品]に関していえば、本誌2月号で木村勉社長のインタビューを紹介させていただいた。そこでも語っていることであるが、現在本店としてある、北白川の総本店は、もともと石材店の石置き場であり、空き地になっていた。そこで屋台とテントで昭和46年(’71年)に天下一品の歴史は幕を開ける。
ラーメン店のスタート…といえば屋台というのが結構ネタになるが、[天下一品]は木村社長の「屋台といえども、皿を洗うのでも熱々のお湯で綺麗にして出したり、スープ、麺…そう味に関しても常に美味しいものを出してやろう…と。そうしたら、この中華そばの屋台の世界で一番になれるんやないか…」という、ハナから名店へのストーリーを描かんばかりの気合の入れようの出発だった。
そんな[天下一品]であるが、もとから現在のこってりスープだったわけではない。その理由は、このこってりスープは寸胴で鶏ガラと野菜をじっくり煮込んで…で、出来たものであるが、店舗を構えてかなりの火力を使って…さらにしっかりと面倒を見て…でないと出来ないのは、言わずもがな。店舗を構えての商売は屋台を始めてから3年と9カ月後のことだ。
店舗に60センチ径の釜(寸胴)をどんと置いてかなりの熱量で鶏と野菜が炊き込まれることによって生まれたコッテリスープ。その釜は「今も本店で使っています。天下一品の、原点のひとつ」と木村社長は語っている。
その[天下一品]。今回の4軒の中では、最も最北端の店であり、その物語を綴るなら「他の店もあるやろ!」という突っ込みが来そうだが、自分は同志社の新町校舎の南にある今出川店に出かけたのが最初と記憶する。学割のメニューがあり、学校帰りや昼飯にちょっと[天下一品]ライフ…が’80年代前半からの楽しみであった。で、なんで[天下一品]へ行ったのか? というと実は、江口寿史の漫画で、京都に箸が立つほどドロドロのスープのラーメン店があり、時々無性に食べたくなって、新幹線に乗って食べに行く…という物語が描かれていて、それを見て「これは一回食べなあかんな〜」と常に思っていたのだ。その後は、もう何食したのか解らない。
その今出川の次に頻繁に出かけていたのが、西木屋町の店。’80年代前半のいい思い出である。現在はもうその姿のない西木屋町店は、店舗内でスープを炊いていたし、深夜3時くらいまで開いていた。ライスや唐揚げといったメニューは当時からあったと記憶する。もちろんラーメンのタレのトッピングや唐辛子ミソもテーブルにあった。
そしてもう一軒よく出かけたのが、祗園石段下北側にあった店(現在の店よりも南側にあった)で、その店では今出川の店同様に学割があったのと、醤油ニラがおいてあり、入れ放題だったと記憶する。
学生時代の記憶…’80年代の[天下一品]が、自分にとっては京都の[天下一品]であり、’90年代は全国FC展開し、いつでもどこでも天一の美味さにありつける喜びに浸って過ごした時代といえよう。
そう、’90年代からの[天下一品]は瀬田のセントラルから全国へ京都のラーメンを代表するこってりな味を配信していくことになる。
ウソのような本当の話として、広島に木村社長が1億円でスープの作り方を伝授したラーメン店が存在する。が、その店もスープを店でつくることに骨が折れ、現在は瀬田工場からの供給を受けているとのこと。店名は出せないが、唯一の傍系がその店と考えていいだろう。
そう、天下一品は、直営、FCともに全ての店のスープが現在一元化されて配信されているのである。基本、どの店でも同じ味が味わえる。
大学というか、学生時代の話に戻ると…天一をはじめ、左京区系のラーメン店はやはり京都の学生に支えられて発展してきた。京大、同志社をはじめ、京都市内の大学生はカロリー補給に誰もが一度は天一に向かったことだろう。はまった人は、江口寿史よろしく、社会人になっても新幹線やクルマでその味を反芻するべく京都にやってきては、天一のこってりをすすって帰る…のである。
そんなリピーターの多くは、「なんであんなに[天下一品]のラーメンのスープはこってりなんだろう?」と常に考えている…そんな探求心の旺盛な輩であり、そんなクエスチョンと解無し! な美味さの取り合わせが天一の面白さなのではないだろうか。