お箸フレンチの系譜
ホテルレストランの実力
京仏融合フレンチの歴史
「祇園おくむら」「匠奥村」「よねむら」「マエカワ」。お箸を使うスタイルのフレンチの源流をたどると、「西洋膳所おくむら」のシェフ奥村真三さんに行きつく。「京都に本物のフレンチを残すには」と、現在とほぼ変わらないスタイルの「西洋膳所おくむら」を立ち上げたのが’81年12月。多くの弟子を育て、弟子以外の料理人にも影響を与え、今なおカウンターに立つ奥村真三さんは、どうやって京仏融合のフレンチに行きついたのだろうか。
まず、40年前のレストラン事情から説明した方がいいだろう。当時、高いお金を払って美味しいものを食べる時にまず向ったのが、ホテルのレストランだった。奥村さんも京都のホテル出身。そこでフレンチを学んだ。興味深いのは、奥村さんが東京五輪の選手村の厨房にも参加していることだ。それは単なるアスリートのための栄養補給の仕事ではなく、日本の洋食が国際レベルにあることを世界に証明する一大プロジェクトの場でもあった。日本中のホテルから腕利きの若手料理人が集まったのが、東京五輪の厨房なのだ。ホテルや五輪選手村など、当時最高の技術を持つ職場でフレンチを学んだ奥村さんだったが、世の風潮はそれとは逆行していた。
まず、五輪後にやってきたビストロブーム。バターを多用するドッシリとした料理が、フランス料理の定番になった。しかし、本物を知る奥村さんには、「フランス料理は、懐石料理のようにあっさりと食べられるはずだ」という違和感があった。
次にやってきたのが、ヌーベル・キュイジーヌ。日本の懐石料理を参考にしたというスタイルは、奥村さんも共感するところがあったが、ベースをつくりこまないソースなどには、やはり違和感が残った。
そして、奥村さんをはじめ、本物のフレンチを学んだ料理人たちに、最大の逆風がやってくる。それが、ホテルの合理化という波である。もちろん、レストランを存続させるためには、利益の確保は必要最低限のことだ。不合理な経営を続けていれば、どんなレストランもつぶれてしまう。しかし、行きすぎた原価管理は、料理人たちのエネルギーや情熱さえも削ぎ落していった。
もっと料理に全身全霊を注ぎこみたい。約30年前、奥村さんを含む料理人達の多くが、ホテルから独立していった。ちなみに、後述する「おがわ」の小川宏二さんもその中のひとりである。
京都という土地に本物のフレンチを根付かせるには…。自分が理想とするスタイルとは違うフレンチが幅をきかせるなか、奥村さんが出した答えが、ベースをしっかりとつくりこむ料理と、懐石料理にも通じる少量多皿スタイルのヌーベル・キュイジーヌの融合であった。さらに京都人に馴染みの深い鰹昆布などの和ダシや醤油、ノリ、ワサビ…、和の食材を料理に組み込み、それをお箸で食べさせた。
お箸、醤油や味噌などの和食材
スタイルを受け継ぐ後進たちの証言
そんなスタイルに感銘を受けたのが、よねむらのシェフ米村昌泰さんだ。
「まだ大阪で勤めていた頃なんですが、和と洋が融合した料理が面白くて、『おくむら』には何回も食べに行きました。縁があって働くことになりましたが、実際『おくむら』より魅力を感じるレストランがなかったので、10年近く働かせていただきましたね」
そんな米村さんに奥村さんが口酸っぱく言ったのが、「一流ではなく、超一流になれ」という言葉。そして米村さんは独立、その後「よねむら 東京店」が「ミシュラン東京」のひとつ星に選ばれたことでも、この言葉が米村さんの心に刻んだ痕の大きさが分かる。
「西島」のシェフ西島裕之さんも、「おくむら」のスタイルに影響されたひとりだ。ちなみに、西島さんは「おくむら」で働くことわずか1年。もともと、「おくむら」の常連客がオーナーとなって西島シェフと店を出すことを考えており、その縁で奥村さんが1年間預かったという経緯だ。だから、彼を奥村さんの弟子とか、技を受け継ぐ、などと書いてしまうと語弊がある。しかし、たった1年とはいえ、間違いなく「おくむら」の薫陶を受けた料理人ということで、こちらで紹介したい。
それまでホテルの洋食レストランで働いていた西島さんが、「おくむら」の厨房に入って驚いたことがある。それは、全身コック服に身を包んだ、どこから見ても洋食の料理人が、和食の料理人のごとく毎朝鰹や昆布の和ダシを引いている光景だ。
「ここは本当にフレンチのお店か?と目を疑いましたね。素材にしてもそう。京都の老舗料亭に卸している魚問屋から、高級な魚ばかりを仕入れていました。僕の知っている洋食の厨房とは、全然違いましたね」
その後、西島さんがシェフを務めた店では、カトラリーにはお箸を当たり前のように置き、和ダシや和素材の使用など、それまでのオーソドックスなフレンチに「おくむら」のエッセンスを加えた洋食を展開することになる。
素材、器、惜しみない投資が
京の街から信用を勝ち取る
老舗料亭と同レベルの魚や器など、スタイルを維持するための出費も、奥村さんは惜しまなかった。印象的なのが魚などの素材にかける姿勢だ。毎日、卸売市場へ通い、そこで西島さんが語ったように、最高級の魚を仕入れた。予約の状況を考えると、明らかに赤字になると分かる時がある。だが決して、「今日は予約が少ないから、魚はえぇわ」とは言わなかった。最高の魚を、毎日買い続けた。短いスパンで損得を考えれば、明らかに合理的ではない。しかし、時には一世紀以上の付き合いも当たり前な京都という街で、そのスタンスでは信用を得られないことを奥村さんはよく知っていた。
そして、意外な話だが、素材や器にかける想いに、「理解ができるようになるまで、一番時間がかかった」と語るのが、「祇園おくむら」「匠奥村」を取り仕切るご子息・奥村直樹さんだ。
父への反発心から、フランスの料理学校に通うなど、オーソドックスなフレンチを目指した直樹さん。「けれど、いつの間にか父のスタイルを受け継ぐ後継者になっていました(笑)」と語る。
「母の苦労なども目の前で見てきたので、素材や器にお金をかけすぎることに違和感を感じていました。けれど、実際にやってみると、京都のお客さんには伝わるんです。父のしてきたことや投資し続けてきたことの意味が理解できるようになったのは、『祇園おくむら』をやり始めてからですね」
最も京都らしい土地である祇園の中で、京都人とカウンターで接しなければ、分からないことがあるのだ。
フランスと京都、両方の土地を知っている直樹さんはさらに語る。
「フランスも京都も内陸部。昔はいい素材が入ってこないという環境で、それをいかに美味しくするかと試行錯誤して料理技術が上がっていった。その歴史は京都もフランスも同じ。向こうのフレンチが、流通技術の向上で新鮮な素材が入ってくることで変わったように、自分たちが生まれ育った京都の文化や伝統の味付けにフレンチのベースを活かせば、フュージョンとは違う、独創的な料理になると思っています」
そして、2007年9月、おくむらは京都の奥深くへと展開を見せる。より京都らしい風情を残す祇園の南側へ、「匠奥村」の出店。しかし、この場所を選んだ理由はそれだけではない。町家などはたくさん残るが、玄関先でお店が客引きするなど、京都らしくない風景も増えつつある。そんな場所に、「おくむら」では初めての試みになる、靴を脱いでお座敷で食べるフレンチのお店を出した。
「『祇園おくむら』でお客さんと接していると、『東京には行かんといて、京都をもっと大事にして』と言われたり、そんな想いを肌で感じたりすることがありました。本当の意味での京都の懐の奥底に入っていきたい、そう思ったんです」
最も京都らしいからこそ、京都らしさが失われつつあることも如実に実感できる。祇園町南側という場所での出店を決意した理由だ。
パっと見ただけでは和食にしか見えない門構え、2階の座敷では芸舞妓を呼んで、祇園ならではの遊びもできる。何よりカウンターでは不可能だった、みんなで取り分けるスタイル。今までの「おくむら」では、考えられなかったことだ。
さらにブランジェリーやパティスリーを、長男の直樹さん、次男の英二さんがそれぞれ指揮するなど、様々な試みを展開する「おくむら」。興味はまだまだ尽きないが、最後にこのスタイルを生み出した奥村真三さんの、次の展望を紹介したい。
「今考えているのが、祇園のどっかの軒下でフレンチの屋台をやること。GパンにTシャツ、帽子をかぶって、丸椅子に座ってお客の相手をするねん。格好はえぇ加減やけど、つくるのは本物の料理。『そこそこ美味いやろ』ぐらいのノリで若者がフラリと屋台にきて、けど実際に食べてみるとビックリみたいな(笑)。今は若い子がろくなもんを食べてへんやろ、だからこそ気軽に本物のフレンチを知って欲しいんや」
ホテル全盛期、オリンピック選手村、そして「西洋膳所おくむら」、京都ならではの感性で本物のフレンチに取り組み続けた奥村真三さんの挑戦は終わらない。