三条会商店街を「チャリ」で飛ばす人を見ながら考えたこと
「京都の街に生きる」ということは、
「世界中の文化をつまみ食いしながら生きている」
ようなものだ…ということ。
【第一回】2007年10月
「京都はややこしい」と、人は言う。それは歴史の中で培われてきた、いわゆる抜き差しならない家や人間の関係性であったり、職やその人の様の中で規定されてきたりしてできたものである。
しかし、学生時代やモラトリアムな時間を京都で過ごすことで、一気にその感覚の距離が縮まるのも確かなことである。気軽に住んでみると京都という街(や人)は意外に恐くないし、街場での暮らしは郊外型の新興住宅地なんかよりかなり快適だし、ラクチンである。学生時代にちょっとだけでも京都に住んだことのある人や、仕事で京都に来た人などを見ていると、京都順応力の高い人は結構多い。
そして、順応すればするほど、京都にほだされて「ややこしさ」が見えてくるのだ、これが…。
そんなことを思ったのも、7月に新しい事務所を構え(この原稿もそこで書いています)、三条会商店街を行き交う人を眺めながら、「祇園や三年坂なんかで逢う観光客的『2人だけの世界』的ベタカップルや、左京区系かまやつギャルではなく、普通に京都の街場を愉しんでいるというか、京都の文化性そのものを内部にしっかりと取り込んでいる学生さんが結構いるやん…」と感じたからである。
実際、立命館や同志社はじめ、京都の街なかから一旦は「よそ」へ出て行った大学(の一部の学部)が、再び京の街での講義を増やすのがトレンドのようであるし、ビッグコミック・スピリッツには、京大の院生のこれまたよ〜わからん漫画(『京大M1物語』)の連載が始まっていたりする。
そんな学生だけでなく、京都の街や人と何らかの形でコミットしていくことは、街場の雑誌をやっていて何であるが、とても重要なことなんじゃないだろうか?
そう思うのは、京都が巨大な田舎であるとともに、何かを買うとか、飯を食べるとかの用事をすませるだけでなく、「世界中の文化をつまみ食いしながら生きている街」だからである。
まさに今回特集でクローズアップしている烏丸は、大学の動き同様に、北山から「COCON烏丸」に移ってきたαステーションや京都シネマの存在が、(買い物などしなくても)表を歩くだけで楽しい(それ は何故か? は、また今度…)四条通のルイ・ヴィトンとともに、とても京都らしいと感じるエリアである。なぜならば、室町や新町、はたまた四条、錦という通を格子状にクロスオーバーする四条烏丸周辺こそ、 祇園祭という京都の文化的特徴を精神的支柱にしながら、観光という「日本らしさ」というドメスティックなナショナリズムだけではなく、歴史の時間軸の中で「世界中の文化をつまみ食いしてきた」場所だから、ではないだろうか。