勤皇志士と京おんな
祇園小路の石畳、染まる血しぶき、染み入る色恋
俗に土下座と呼び違えられ、御所(皇居)を望拝する武士の像が三条大橋東詰に鎮座する。
小生の知る限り京都で一番大きい銅像ではないだろうか。その存在は誰もが知る銅像ではあるが、誰なのか、どんな人かと尋ねてゆくと、極端に知る人が少なくなる。
名は高山彦九郎(1747〜93年)、江戸時代後期の尊皇思想家で、18歳の時に上野国新田郡(群馬県太田市)の家を出て、各藩を遊歴して勤皇論を説き、幕府の監視を受け、寛政5年享年46歳で久留米にて自刃した。長州藩松下村塾塾頭吉田松陰(1830 〜59年)はじめ、多くの幕末の志士に影響を与えた人物で、「寛政の三奇人」の一人である。
尊皇倒幕による明治維新の精神的支柱となり、近代日本を生んだルーツともいえる。
1928年初代銅像建立には東郷平八郎が台座に揮毫をなした。
彦九郎の銅像のある斜め向かいの「だん王(檀王法林寺)」の傍に「超勝寺」という寺がある。ここに勤王芸者で名高い「中西君尾墓」がある。
戊辰戦争で歌われた「宮さん宮さん お馬の前の ひらひらするのは なんじゃいな」という「とことんやれ節」は、中西君尾が作曲し、長州藩士品川弥二郎(弥二)が作詞をしたといわれている。
新政府での 農商務大臣、内務大臣を歴任した品川弥二郎(1843〜1900年)は、長州藩の足軽品川弥市右衛門の長男として生まれ、安政5年(1857年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受け、高杉晋作(1839〜67年)らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、イギリス公使館焼き討ちなどを実行し、薩長同盟に尽くした男である。
一方、祇園一の美貌ときっぷのよさで評判であった君尾には逸話が多い。
新選組の近藤勇に祇園一力の座敷で口説れた時には、「禁裏様のために死んでおくれやすか、天子様のために 尽してくださるお方でなければ いやどす」と、こう言いのける気丈な勤皇派の芸妓であった。
また、恋仲にあった井上聞多(1836〜1915年/後の元老井上馨)は、君尾に贈られた鏡を懐に入れていたお陰で、俗論党の襲撃を受けた際にとどめの刃を避けられた話もある。
更に、薩摩の桐野利秋は、幕府方に追われ公卿邸に逃げ込んだとき、居合わせた君尾が浪士を退散させたという話など、君尾は勤皇の志士を救い、多くの手助けをした。
そんな君尾を贔屓にする勤皇派の志士は多く、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、西郷隆盛などは常連であったといわれる。
結局、君尾を射止めたのは品川弥二郎で、祇園の置屋島村屋から身請けして愛妾とし、一子をもうけている。
中西君尾(1844〜1918年)は園部藩八木の博徒元締友七の娘で、父の死後、建仁寺町の槍術師範江良太造の家に母子で住まい、文久元年(1861年)18歳で祇園の置屋島村屋の芸妓となり、勤王芸者の名を馳せ、75歳で死去した。
度胸の座った勤皇派の京おんなは辞世の句を・・・
「白梅で ちよと一杯 死出の旅」と、残している。
島村屋は勝屋と肩を並べる往時の祇園の一流の置屋で、君尾は島村屋を背負って立つ売れっ子の芸妓であった。
銅像を後に縄手通(大和大路)三条を下ると、京阪三条南ビルの敷地内に「小川亭之跡」の石碑が建っている。
小川亭は肥後藩御用達の魚商であったが、女主人のリセと嫁のテイにより旅館に転業され、八畳の離れ座敷が諸藩の志士達の密会の場所となっていたところである。
小川亭のエピソードも数々あるが、リセとテイが新撰組などに討ち取られた志士達の供養を三条河原で手厚く行っていたことで知られる。
肥後藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう/1820〜64年)の下僕が新選組に捕縛され、拷問の末、口を割らないので南禅寺山門に生き晒しされ、三条河原に首を晒された時も、池田屋事件の志士の遺体が近くの三縁寺(昭和54年岩倉花園町606へ移転)に運ばれ、四斗樽に入れて置かれてひどい状態になっていた時も、見るに見かねて埋葬し供養したようである。
「・・・この方々の首は河原へ晒され、(中略)それより二十年の間は心ばかりの手向けの香華がせめてもの御回向であった。」と、勤王ばあさんテイの後日談として伝わる。
その小川亭は大正9年に旅館業を廃業し、建物は第二次世界大戦の時、強制的に取り壊されている。
「小川亭之跡」の石碑を南に四条通へ、縄手通をしばらく歩くと、白川大和橋の手前東側あたりが長州藩出入りの「魚品楼(うおしなろう)跡」である。顕彰碑などは建てられていないが、維新後改装された魚品楼は「料理屋 大まさ」と屋号を変え、そこには高杉晋作の部屋が設けられていたという。高杉晋作寓居跡ともいわれる由縁であろう。現在の「水だき・鳥すき焼 鳥新」と「割烹 富良」のあるあたりである。
高杉晋作は伊藤俊輔(1841〜1909年/後の博文・日本国初代内閣総理大臣)に負けず劣らずの艶福家らしく、魚品楼の座敷で最初に長州藩士に芸妓を引き合わせたのも晋作で、井上聞多も品川弥二もこの時君尾に一目惚れしたのかも知れない。
当の晋作は、祇園の井筒屋(現在/創作ダイニング 祇園辰巳NEXUS)の芸妓小梨花を連れ、直刀の長脇差を腰に1本歯の高下駄を履き、絵日傘を差し開き、人目憚ることなく祇園町を闊歩する姿は有名であったらしい。
時は文久2年から3年(1862年)頃のことである。その頃は妻雅子のもとに居ることはなく、下関の遊女おうのを連れ歩くこともしばしばで、京では祇園にも島原にも表れていたようである。
縄手四条を東へ花見小路の東南角に赤塗りの壁が見える。小生も未だこの中の座敷を知らない。
仮名手本忠臣蔵の大石内蔵助(1659年〜1703年)が本懐を隠し遊んだところとして世に知られ、祇園で最も由緒あるお茶屋と名高い「一力」である。芸妓君尾が近藤勇を袖にしたエピソードのある座敷もここである。
祇園に遊んだのは会津藩士や新撰組、長州藩士ばかりではない。
薩摩藩の西郷隆盛(1828〜77年)や大久保利通(1830〜78年)も一力の座敷に通っていたのである。大久保の愛妾であった芸妓おゆふ(杉浦勇)が一力の座敷に出ていたため、西郷も連れ添って足繁く会合を持ったといわれている。
後に大久保は妻満寿子との間に四男一女を、愛妾おゆふとの間に四男を儲けている。
その西郷はというと、一力の筋向いあたりにあったお茶屋「奈良富」を贔屓に出入りしていたのである。四条通を挟んだ祇園町北側になる。西郷は芸妓ではなく仲居のお虎を目当てにしていたらしい。
お虎は愛称を「豚姫」と名づけられ、一升酒を軽く空けるほどの大酒豪で、その豪快さが西郷に気に入られ愛されていたという話で、「西郷どんに豚姫」は藩士の中でも語り草であったようである。
西郷には三度の離婚暦があり、この頃、いわば独身であった。
同じ薩摩藩で、家老職にあった小松帯刀(たてわき/1835〜70年)は、祇園の名妓お琴(琴仙子/琴子/三木琴)を16歳で身請けし愛妾(側室)とし、京都小松邸に住まわせ、一男一女を儲けた。
薩摩の妻(正室)千賀は、帯刀の死後、お琴が産んだ子を養子にして育てたに留まらず、その後、けなげであったお琴の遺書に沿い、小松家の墓地の一角にお琴の墓碑を建てている。
こうして、近代の夜明け前、祇園に住まう京おんな達は、公武合体から倒幕の流れを肌で感じ、おとこの歴史を見聞きしていたのである。
座敷の話は決して外に漏らさぬ花街とはいえ、好きな男の耳には仕方ないのは世の常かもしれない。勤王芸者をはじめとする京おんなの支えは、近代の幕開けの歴史を動かす役割さえも担っていたと言っても過言ではなさそうである。
石畳を歩きお茶屋の続く軒先を眺め、古の格子戸の中を思い浮かべられてはいかがだろうか。