春祭最後の嵯峨祭
権者の栄枯盛衰、民の祭りはしなやかに強かに
春祭りの幕が降りるのは5月の第四日曜日で、野々宮神社と愛宕神社合同の嵯峨祭の還幸祭となる。
歴史的な祭礼の日も、その時代の人の都合で決められることが多くなってからは、祭りの日を覚えるわけにはいかず、いつの日曜日にどこに祭りがあるかを確認しなければならない。
数年前、嵯峨祭を見物したときに面食らったことを覚えている。
その折は行けばなんとかなると、何の下調べもせずに出かけ、一路嵯峨野の竹薮を目指し野宮神社に直行したのだが、そこには嵯峨祭の幟もなければ、祭礼をしているような設えもなかった。
嵯峨祭のポスターすらなく、祭礼に関するものといえば、10月の斎宮祭の写真と告知だけであった。
日にちを間違えたのかと不安になり、巫女さんに尋ねると、御旅所で祭礼はやっているとのことで、早速に嵯峨釈迦堂前にある御旅所へ向かった。
注連縄が施された朱の鳥居の前には、「愛宕野々宮両御旅所」と刻まれた石碑がある。
境内中央に拝殿があり献燈の提灯が架けられ、周りには露天商の屋台が並び、西奥には二基の神輿庫とその隣にはテントが張られ、各町自治会の提灯もあがっていた。
既に神輿は出御したあとで、その年の巡幸コースに沿って練り歩き、大覚寺に向かっているという。午後からは大覚寺を出てフェリス嵯峨前を通り嵐山に向かい、嵐亭前から渡月橋北詰を経て、御旅所に還御するということだった。
つまり、いずれの神社にも立ち寄らず、大覚寺にて神官と僧侶のお祓いがあり、各町内と御旅所を往復巡幸するのである。
小生は嵯峨祭を不思議な祭だと今も思っている。
なぜなら、野宮神社と愛宕神社の祭礼と言われているのに、どちらの神社の公式ページにも年中行事として記されていないばかりか、何の告知広報もされていない。
唯一記されているのは、大覚寺公式ページの行事カレンダーだけなのである。
だから、大覚寺の祭と呼んでも外れていないように思っている。
今年は下調をしてみたが、確たる祭の由縁や起源の手がかりになるものが少なかった。
はっきりとしているのは、嵯峨祭奉賛会が嵯峨学区二十九町内会で組織されていることであった。つまり地域の里祭りということなのであろうか。
還幸祭の行列につきながら、祭具などを見て、あるいは奉賛会の物知りの方に聞くしか手立てがないのだろうと思った。
巡幸する神輿二基には「愛宕神社」「野々宮神社」と染め抜かれた布(お絹)が神輿の屋根に、間違いなく掛けられている。
また、行列の先導は両神社の宮司、神官が取られており、御旅所での遷霊も両神社の神官により執り行われている。
與丁の世話役の年配者に声をかけてみた。
この二基の神輿は大覚寺さんからの寄進であることを知った。
更に、その昔、広く嵯峨一帯は大覚寺さんの領有地(管領)で、愛宕さんも大覚寺さんが管轄する修験の道場であったという。
話は更に続き、愛宕の僧兵(愛宕衆)の宿坊が大覚寺さんにあって、嵯峨祭の神輿は愛宕衆が担いでいたという言い伝えである。
大堰川沿いの嵐亭前に立てられた剣鉾をじっくりと眺めさせてもらった。
鉾先の下にある錺(かざり)の中央にあるのが神額と呼ばれる。この神額や棹の文字に「愛宕」の文字が五基ともに見られた。
「愛宕山大神」「愛宕山」「愛宕神社」である。
愛宕神社、野宮神社の起源、創建について紐解いてみると、産土(うぶすな)の神ではなかったのである。因みに、産土の神とはふるさとの鎮守の森に鎮まる「地霊(出生地の神)」のことである。
愛宕さんは、明治初年の太政官布告の神仏分離令により、寺を廃し愛宕神社となったもので、神仏分離令以前は六宿坊があり、真言宗大覚寺の所管する修験の道場だったのである。
また、愛宕山は愛宕太郎坊で名高く、701年朝日山白雲寺を別当寺として、勝軍地蔵・泰澄大師・不動明王・昆沙門天・竜樹菩薩の五尊を奉祀し、奥の院には、太郎坊栄術・役行者(えんのぎようじや)宍戸司前(ししどしぜん)のご一座を祀り、781年(天応1)に和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅命を受け、愛宕(おだぎ)郡鷹峯(たかがみね)から神霊を迎え、堂宇を造営したという。
平安京となってからは王城の北西の守護神として、愛宕山大権現を号している。
一方、野宮神社も、大覚寺さんが嵯蛾御所の時より、伊勢斎宮として嵯峨の地に縁があり、南北朝時代の混乱で斎宮が廃絶し、神社としても衰退していった。その後大覚寺さんの庇護を再び受け、復活隆盛し、明治までは大覚寺が管領していたと聞く。
これで、両神社の御旅所が一箇所にあり、大覚寺さんへ剣鉾や神輿が練りこむことにも頷けた。
午後2時半、大堰川畔嵐亭前で行列が整えられ、渡月橋から長辻通を北上してお旅所までが最後の晴れ場である。
左右の足を交互に跳ね上げ腰をひねっている。この差し方が嵯峨流である。そのひねりが棹を伝わり錺の房を躍らせ、鈴(りん)が左右に揺れ棹に当る。
沿道に涼やかな音が響き渡り、小生の気持ちを和ませてくれる。威勢の良い跳ね方に沿道から声援と拍手が湧いている。
神輿の與丁は全身で鳴りカンを激しく揺さぶり、神仏分離の歴史に弄(もてあそ)ばれたことなど素知らぬ顔で、疫神疫病退散の厄除招福を願い、愛宕の麓嵯峨の伝統を一心に受け継いでいるように、小生には見えた。
戦国時代、天文二十二年(1552)にはじまったと伝わる嵯峨祭。
神仏と民衆とが一体となり、大覚寺統の率いる嵯峨の里に国家を形成していたように思える団結が見られる。今も田畑と茅葺が残る愛宕の麓は不思議な里祭を守っている。
その様子を描いた「嵯峨祭行列絵巻」という江戸後期の作品があると聞いた。
今は遠くアイルランドのチェスタ一・ビティ―美術館に所蔵され、その絵巻を知る人は少ない。
何か淡い寂寥(せきりょう)感を覚えるのは小生だけではあるまい。