大事なことはそこで教わった
コミュニケーションの、
場としての銭湯。
そこは、裸天国だからこそ、
世の中というものの、
フレームが少し見えてくる。
第五回 2008年3月
まさに街場ということで言えば、寺町三条下ルの「桜湯」なんかは、その典型といっていい。アンダー400円のノーマル銭湯(これがまた、立派な風呂なのである)に加えて、本格サウナが併設されている。これは何でもアリのオール・イン・ワン=スーパー銭湯とは違って、コミュニケーションのレベルが風呂の現場というかステージによって違う、ということを示している。
例えばそれは、「手ぶらで風呂へ行くこと」とは何か?であったり、仕事が終わって風呂に来る人間と、風呂に入ってから仕事に行く人間と、そして遊びに行く前に風呂に入っていく人間がいることを理解するということであったりするのである。風呂屋で出会った人間と、再び服を着て会うこともまた、街場ではしばしばあるが、風呂でしかしない話もあれば、現場や店でしかしない話があるのも、これまた事実である。
僕が高校3年の時にひとり暮らしを始めた町家には、風呂がなかった。その時に銭湯デビューを果たすのであるが、銭湯デビューとクルマの免許を取った時期とが重なって、いつも若葉マークの付いたクルマのトランクには風呂セットが入っていた。
よく出かけたのは、有馬湯、金閣寺湯、衣笠温泉、正面湯、洛陽温泉、そして大将軍やスポーツサウナ、ニュー富士といったサウナである。正面湯は、ちょうど綺麗になったというか、ビル銭湯となった時で衝撃を受けた覚えがある。サウナニュー富士は、ご存知、四条マハラジャの上にあったそれで、「入れ墨の方お断り」と書いてはあるが、五条楽園の組事務所の贈呈名の入った額が飾ってあるなど、世の中というもののフレームをガキながらも少し理解したような気になったことを思い出す。
もちろん、真剣な入れ墨(ま、真剣ではない入れ墨があるのも困ったモノだが)を初めて見たのも銭湯であると記憶する。また、その入れ墨が何を意味し、どんなメッセージを世間に投げかけているのかも、その時に勉強した。そして、その時に覚えた重要なことは、「無駄口をたたかない」ということだ。
ちなみに、僕は風呂屋でリクルートされたことはないが、ある女友達によると、1人で銭湯に行くといろんな職業の方からリクルートにあうそうだ。その度に、「喫茶店のママ」になってみたり、「毛皮の販売員」になってみたりする自分を想像するそうだが、彼女は今も雑誌編集者を続けている。