京都者宣言

第3回 東郷一重 映画監督/ 株式会社元気な事務所 代表取締役社長

京都は、日本という国の美しさや文化や歴史を
感じさせるものが道すがらにある街である。
だからこそ、日本全国から観光客がやってくる。
それは、日本にやってくる外国人もしかり。
外国人はハイテックな都市としての東京以上に、
京都が大好きであるし、日本人以上に深く京都に残る、
日本らしさや文化を学ぼうとする。
見渡せば私たちの周りが、そんな日本文化が、
大好きな外国人ばっかりになっていたら…。
ありそうで、なさそうで、ありそうな、
そんな近未来を描いた映画が「地球のヘソ」である。
京都を最も美しく撮るといわれる男、東郷一重監督に、
この映画を撮ることになったいきさつ、
そして、ファインダー越のリアルな京都を語ってもらった。

京都に拠点をおき、CFやTVの番組を撮影されてきた映像クリエイターの東郷さんですが、この映画のアイデアはいつ頃?

東郷 企画そのものは5年ぐらい前からありました。企画書にまとめて、映画プロデューサーとか、製作をまとめている方とか、映画会社の方とか…そういう方に見せるとこれが結構リアクションよくて「面白いねぇ」ってえらく言っていただいた。それで「いけるんかなぁ」って思ったんですけど、結局映画って売れたことのある監督であるとか、キムタクがキャスティングできるかどうかとか、松本人志が撮るとか、そういうことで土台に乗っていくんで「難しいなぁ、難しいなぁ」の連発で…。  でも、自主製作ではやりたくなかった。それがまぁ20代〜30代ぐらいの「若気の至りでやりました!」ならいいんですけど「この歳になって自主映画もな」みたいな感じはありまして…。
 それでしばらくは温めていたんです。でもなんというかね、主役をやってもらったにしゃんたが町家を借りて住みだして…招かれていった時にピンと思ったのが「京都に住む外国人である彼らが話にノってくれて快く協力してくれたら、そして京都で常日頃から映像に関わっているみんなで寄り集まったら、大きなスポンサーを付けたりしなくても撮れるんじゃないか…」ということなんです。もちろん映像の世界にいる人間として、最高峰としての映画をやりたいという自分の気持ちと、私自身がずっとお世話になってきた「京都」をしっかり丁寧に撮影したい…そんなピースが一気に重なったのが、昨年の夏でした。

「地球のヘソ」を観て、ストーリーの面白さ以上に度肝を抜かれると言うか、じわじわっと心のひだに訴えかけるのが、そこに映っている京都=東郷さんの撮りたい画=自分が住んだり見たりとかしているフィールドでは、と。

東郷 そうですね。ずっと京都で仕事しているんで。あんまり映像に携わってない人間がパッと見たときに、「この映画は京都がきれいに撮れてるからいいですよね」と言ってくれたんです。なんともいえない嬉しい言葉でしたね。いわゆる「京都をちゃんと撮って飯を食ってきた映像陣が集まって、ちゃんとやっていますよ」という部分は胸を張って言えるかなと、そん時思いました。今も思っていますけど(笑)。例えば嵐山って普通はこっから撮るのがベストポイントやって解っているんですけど、敢えてこの映画ではこっちから撮ってみようとか結構そういうところを考えましたね。あと「そうだ 京都、行こう。」の昨年のポスターが妙心寺だったんですが、東京でそれ見て「あ〜、やっぱりでもこのイメージは東京の人が見ても『ザ・京都』なんだ」と思って、で、妙心寺にお願いしたら「あんたらそんな映画やりたいんなら撮ってもいいよ」言うてもうて撮りました。普通は撮らしてくれないらしいんですけど、妙心寺の雲龍図、ちゃんと映画の中でもありますんで。映画の中には清水寺と妙心寺と、あと伏見稲荷の千本鳥居が入ってます。やっぱりそこを避けずに、絵葉書のようなところはちゃんと入れましょか、と。それが肩の力抜いて出来るのが、京都で普段から画を撮っている連中なんですね。この映画がもし、もし東京とか、もっと言えば海外とかで上映されたときに「このロケーションになっている京都っていうのはやっぱり凄いところやな」っていうところは、あると思うんですよね。

その京都の凄みを今、一番解っているのが外国人だ…と。

東郷 そうですね…。僕は今回特別出演してくださったジェフ・バーグランドさんと長く仕事をさせてもらっているんですが、ジェフさんの家の納涼床パーティに行ったら錚々たる面々が来ているとこまではいいんですけど、「床はですね〜」言うて説明しているのがアメリカ人で、話を聞いているのが日本人(笑)。冷静に見たらおかしいですよ、それって。「京都の床はこうでこうで」とか「大工さんに頼んで費用はどれくらいかかった」とか「何月から出して何月にしまわなあかん」とか「納涼床の組合はこういうシステムになっている」とかいうのは全部ジェフさんが説明するわけですよね。で、お家の中も「これは何時代のガラスで、今はもうつくる職人がいない…」だとか「この聚落壁、全部やり直すのにすごい費用がかかんねんけど、今年やらなあかんな」みたいなことを言うてはりましたけど、「そんなややこしい家よう住むな〜」みたいな感じがするじゃないですか。にしゃんたが町家を借りたときも、あの、なんちゅうんですか、作務衣着て、囲炉裏かなんかあって…「キミってスリランカ人やね?」って感じで。すごいなぁ思てね。よっぽど日本のこと好きなんやなぁと。
 そんな中で、にしゃんたやジェフさんみたいな…、もっと言えばお茶のお師匠さんとか踊りのお師匠さんとか、落語をやる外国人の方とかいっぱいメディアに紹介されていますけど、そういう人達がどんどん増えていって、京都の街をずっと歩いているのが全て外国人だったら…と考えたんですね。それはきっと誇張した世界なんですけど、あり得る現実でもある。で、ジェフさんとお話してもにしゃんたと話しても「あり得ますよね」いう話になったときに、ひょっとしたら映画の世界で誇張してやればすごくなんかこう、ユーモアがあって、不思議な映画なんだけど、ちょっと最後に考えるところが残る、そんな映画が出来るのではないか、と。  で、そんなこんなの中で、まぁ予算もなけりゃあ、有名なキャストも使えない。もちろんこちらも有名な監督ではないってときに、なんかこう、企画で引っぱれるっていうか、「その企画面白いやん」みたいなノリが増幅していったというか…。無理なんだろうなぁってずっと思っていたのが吹っ切れたんです。
 京都発不思議映画みたいなことをコンセプトにやろうと。だからあんまり豪快に解りやすいストーリーでもないし、でもかといって芸術家ぶって「解りにくいでしょう?」みたいなものをつくったつもりもないんですけども、全編になんか不思議な空気が流れている、例えば外国人2人が、白人系と黒人系の方が囲碁を打つっていう、    普通にこう、コマーシャルのコンセプトみたいな感じなんですけど「洒落としてそういうのって面白いよね」と。あとは花板さんがアメリカ人で、見習いは日本人っていうシーンとか、踊りのお師匠さんは、あの方もアメリカの方だったと思うんですけど、アメリカ人なんだけどゲイとか。まぁちょっとパロディなんで、元々映画っていうのはエンターテインメントなんで、笑えるところとか、クスクスってなるようなシーンが随所にあります。で、そんな感じでストーリーを組み立てていったときに、あ、ひょっとしたらこの世界面白いかもっていうとこで進んでいったんです。

なるほど。逆にその京都を題材に、最近では「舞妓 Haaan!!!」とか、ちょっと以前であれば鈴木保奈美が出ていた「いちげんさん」。すごくいい映画だと思うんですけど、それらはある種京都を笑い飛ばせる部分もあるけれど、その笑い飛ばせるだけの度量のあるエイリアンがつくった映画じゃないかと。

東郷 そうですね、エンターテインメントですもんね。まぁなんちゅうんですか、表現の方法はいろいろあると思うんですけど、「地球のヘソ」は京都に対する僕なりの愛情表現でもある。それは思いっ切り「ねじれ」みたいなことを敢えて大きくして見せているみたいなことなんで。言葉は悪いですけど、いわゆる捏造映画ですよね。こんなことあり得るわけがないっていう。でもあり得ないことをちゃんと具現化して見せるのが一つの映像の役割だと思うので、京都という街に対しての大げさに言うたら愛情表現みたいなことになったらいいなと思っています。人々がこれを観て難しく考える映画にはしたくないし、これで危機感を覚えてもらうのも、またそれはそれで嫌なので…。だから映画の主旨的にはね「あの京都文化は何処へ…」みたいな感じにはとれると思うんですけど、でも設定がそうであるだけで、描いていることはいわゆる完全にフィクションです。映画は基本的には観た人が考える幅だけ残しておかないと、ねぇ。解りやすくつくっちゃうともうテレビドラマでいいやん、ということになるんで。
 謎の日本人の女の子とタクシードライバーをやっているスリランカ人が主役。で、スリランカ人の住む町家に日本人の女の子が約1週間ほどお世話になるみたいなお話なんですけど。スリランカ人は和食を食べるし、女の子はトーストを食べるみたいなシーンから始まります。  箸を持てない日本人、箸をしっかり持てる外国人、あとお茶の作法を知っている外国人、全く知らない日本人観光客…。言うたらコメディ、でも結構現実的にそうなんちゃう? っていうとこありますよね。こないだも、これ余談ですけども新聞記者の方がずっと正座してにしゃんたと喋っていて、にしゃんたは何ともないんですけど記者がしびれ切れて「あたたた」って。そんなシーンがまんまあるんです、映画の中にも。お茶の作法中にしびれが切れて。いわゆる正座っていうものを日本人はできなくなっている。
 映画は近未来ということで、劇中では50年後って言ってるんですけど、話によると「50年もかからない」って。当初企画の中でやりたかったのは外国人の市長がいるとか、そこまでやってもおもろいなとは思ったんですけど、なんかまぁいろんなことでちょっと、ストーリーをこぢんまりしないと規模的には結構大変なんで。あと舞妓も「イギリスの女の子とかがやったらかっこいいやろな〜」とは思ったんですけど、そこは京都への配慮もあって、そこまでやったらあかんやろなというラインを一応守ってるつもりなんですけどね(笑)。お坊さんだけは外国人がやってますけど…。実際おられますからね。

確かに京都という空間でそれを表現するから余計に意識が働くのかもしれないですね。国籍なのか? 人種なのか? 国際交流? そうこういっているうちにサッカーの日本のオリンピック代表のフォワードは李とロバートですからね。野球のエースはダルビッシュですし…。

東郷 だから一種、この映画で何言いたいんですかと聞かれたときに答えるようにしているのは、国際交流、国際交流っていう。で、その国際交流が進んだ後の、「いわゆる完成形」ていうのはひょっとしたらこういう世界? なんかなと。そして文化としていいものはみんなで守りましょうよ…と。逆に言うとこういう「日本人大丈夫ですか?  やばいですよ、乗っ取られますよ」みたいなことは全く描きたいと思ってないんです。だから京都の人が見ても、笑って「あー、京都きれいに撮れてるし、やっぱり面白い視点の映画やな〜」ということで各自が持ち帰っていろんなこと考えてくれたら嬉しいし。真逆の化学反応が起こって「ちょっと花でも活けてみようかな」とか、「ちょっと生活態度をもう一回日本文化の方向に戻してみようかな」とか思う京都人が出てきたりすれば、それも大いにアリだと思います。