KYOTO CLUB MUSIC SCENE 2
- 1:PROLOGUE
京都という現場 - 2:EARLY ’80s[Music]
僕らの時代のそのちょっと前。 - 3:EARLY ’80s[HAKO]
ハコもまたユニークだった80’S - 4:Late ’80s
セカンド・サマー・オブ・ラブ - 5:’90s
メトロへと続く道。 - 6:EPILOGUE
大沢伸一、沖野修也、田中知之
EARLY’80s[Music] 僕らの時代のそのちょっと前。
コンサバとヤンキーに挟まれて、
パンクやニューウェーブ、
そしてテクノが気になりだした頃。
では、僕たちが青春を過ごした’80年代の京都ニューウェーブ・シーンとはどういうものだったのだろう? クラブフェイム時代の本誌が創刊された、そんな時代のちょっと前のことであり、本誌の前身ともいえる京都シティ・フォーカスが情報誌の先駆けとして話題を集め始めた、そんな時代のことである。コンサバとヤンキーに挟まれて、
パンクやニューウェーブ、
そしてテクノが気になりだした頃。
まず、重要な流れというか、ポイントとなるのが、[DD]※1のあるエアポートビルの地下にあった、[クラブモダーン]※2じゃないだろうか? 正直、ロックやブルースは子供心に格好悪いと思っていたし、時代はパンク~ニューウェーブ~テクノという渦に巻き込まれていた。
[クラブモダーン]は、ディスコという箱モノとライブハウスというものの中間領域にきちんとあったハコで、まさにクラブを先取りしていた。そんな[クラブモダーン]に集まっていたメンバーによって結成されたグループが佐藤薫る率いるEP-4だ。彼らは、機械と肉体、その身体論的解釈によるサウンドを奏で、デトロイトテクノ~ハウスミュージックにおける機械と黒人ビートと早くもシンクロしていたといえるだろう。またそれは、京都がアシッドジャズ※3やファンク、はたまたブーガルー※4やブラジリアン・ポップスといったものがすんなりと京都のクラブで受け入れられる土壌を作り上げたといえるし、ドラムンベースといったものまで先取りしていたと言っても過言ではないと思う。
次に、EP-4と同じくというか、EP-4以上に京都ニューウェーブの大きな脈流の礎となるグループが、これまた’80年にメジャーデビューする。それが、ザ・ノーコメンツである。音は、というと、スカあり、ラテンあり、ファンクあり、トーキングヘッズ~B-52あたり。で、メンバーには、後に月刊SAVVYの編集長を務める野田達哉、これまた伝説のバー[ドレミ]~[ノイリバー]※5の野杁シュウジ、現[アルファベット・アベニュー]※6のタコさんこと明石マサト、そして後にネーネーズ※7を世界に送り出す佐原一哉がいた。そんなノーコメであるが、3枚のアルバムを残したが、途中空中分解している。その辺の事情はよく知らないが、’81年には、早くもコンセプトメーカーだったケン山崎(sax)、野田達哉(b)は京都でノン・カテリアンズを結成している。また[拾得]の奥で古着や雑貨を扱うショップ[ハイカラ万華店]を開いていた故・北山和可さん(月刊SAVVYのスタイリストとしても活躍されました)が、全面的に関わるようになる。前述のEP-4とも、ノンカテは頻繁に接触していた。そんなノンカテには2人の他に、後にローザ・ルクセンブルグを結成する玉城宏志がギター、アンディ&ヒズ・ファイヤークラッカーズのアンディがドラムスだった。そして、ローザの結成が’83年。玉城に[拾得]でアルバイトしていた久富隆司、ヴォーカル&ギターどんと※8、ベースに永井利光、ドラムに最初はアンディが参加していたが、後に当時京都といえば、のレコードショップ[十字屋]のスマイルお兄さん三原重夫(後にスターリン等に参加)が担当する。ローザも、結成当時は北山和可さんがコーディネイトしていた。で、メンバー的な重なりはなかったと記憶しているが、ノンカテに続くグループとして北山和可さん、そしてケン山崎がプロデュースしたのがHip-See-kid(ハープシーコード)である。ローザもそうだが、このハープシも’90年代の日本の音楽シーンに影響を与えていくメンバーを擁していた。ベースが大沢伸一(MONDO GROSSO)、ドラムがDJ沖野修也のユニット=コズミック・ヴィレッジの黒羽 、そしてサックスに佳山シンゴ。シンゴは後にFAIRO VANZを結成。14人編成のホーングループで、キーボードがハミングスの上田禎、ギターにウルフルズのトータス松本という強力なメンバーだった。また、ローザは後に、どんとと永井が川上“KYON”恭生を キーボードに迎えて、ボ・ガンボスをスタートさせている。
いわゆる、この流れが、京都ニューウェーブにおける、ファンク系の流れということになる。北山和可さんの影響で古着をうまく取り入れた、当時主流だったデザイナーズブランドものを見事に着こなしていたのが連中であり筆者だった。そして、確実に、このノー・コメンツの流れというのが、いわゆる京都のニュー・ジャズ・シーンへと発展していく。
大沢伸一の名前が出たが、彼はノーコメ~ノンカテ周辺の若手の中では群を抜いて音楽の才能があった。筆者はどちらかといえば、ミュージシャンと言うよりもニューウェーブ周辺のアイデアマンという感じだったが、それは音楽的なことよりもやはり街的な格好良さや、瑞々しい感性をもって時代の気分を演出していくということに躍起になっていたからだ。そしてなによりも、今、カミングアウトするが、大沢伸一と貸し借りしていた自宅録音用のマルチトラックレコーダーがあったのだが、大沢が抜き忘れたテープを聴いて「俺は絶対に、音楽をクリエイトすることにおいて、こいつの才能にはかなわない」と思ったからである。確か’83・’84年頃のことである。この頃ノンカテのフォロワーがローザ・ルクセンブルグとハープシーコードだとするならば、EP-4は、佐藤薫がフェイドアウトした形でUNIT-4というまさにユニットへとスピンアウトして活動する。現在「おけいはん」のCFや大沢たかお主演の[ファントム]などに出演している怪優にしてソウルシンガーのコング桑田がサポートメンバーだった。またユニットをリードしていたユンツボタジは、ロック喫茶[飢餓]を今に受け継ぐ[タバーン・シンプソン]でバーテンダーをしていたが…。
脚注「※数字」は原文、その他はWEB版
※1[DD]
木屋町三条上ル一本目西入ル。木屋町な、若さとヤンチャでありながらも、大人が街のことを教えてくれる、そんなバーのハシリともいえる店である。いわゆる「ススムさんの店」の1軒目であり、キャッシュ・オンで飲めるバーのハシリである。筆者はこのDDでバックギャモンを覚えました。
DD –追補
創始者山中進。現在の店主上杉さん「古い観光地みたいなもんです。名前は知ってるけど、しょっちゅうは行かない。あと有名なんやけど、ここでは知人に会わないっていう都市伝説的な店(笑)」。
http://blog.livedoor.jp/clubfame/archives/50937285.html
※2[クラブモダーン]
京都におけるいわゆる「お姉ちゃんのいない」クラブのハシリといっていいだろう。世界中の好感度アンテナ人間がここに集まっていた、と言っても過言ではない。普段はニューウェーブをかけていて、プラスチックス(佐藤チカ、中西俊夫、タチバナハジメ、佐久間正英がメンバーだった)のライブなども行っていた。
※3[アシッド・ジャズ]
ジャズで踊る…そんなスノッブなロンドンのシーンで、DJのジャイルス・ピーターソンがレイブ・シーンにおけるアシッド・ハウスに対抗してつけた名称。音楽的には、ジャズはもちろん、レア・グルーブやブラジリアン・ポップスなどの生音から、ヒップホップ、ドラムン・ベース、ニュー・ジャック・スイングといったエレクトリックサウンドを巻き込んだものまで幅広く指す。ジャイルスによるインディ・レーベルの名前にも使われていた。サンダルズやジャミロクワイなど。
※4[ブーガルー]
リズム・アンド・ブルース、ソウルとキューバ~カリブ系のリズムがミックスされた’60年代から’70年代にニューヨークで流行したラテンサウンド。ジャズ的なアプローチも多く、ルー・ドナルドソンはズバリ「アリゲイター・ブーガルー」なるアルバムを出しているし、ハービー・ハンコックの「ウォーター・メロンマン」は、ブーガルーの不朽の名曲とも言われている。
EP-4
1980年6月、京都のディスコ「クラブ・モダーン」の常連だった人々によって結成された、エレクトロ・ファンク・バンドである。リーダーでヴォーカル佐藤薫。伝説となっている、83年にリリースした唯一のアルバム『昭和大赦-リンガ・フランガ1』
※5[ドレミ][ノイリバー]
音楽と酒に大変造詣の深い野杁さんの店と、[ドレミバー]は’90年8月1日発売のミーツ誌に書かれてある(というか、誰が書いたのやら…)。ちなみに、[ドレミ]は木屋町六角西入ル、[ノイリバー]は木屋町通三条上ル二筋目西南角CEOビル6F
※6[アルファベット・アベニュー]
お馴染み? [クック・ア・フープ]のタコさんのお店である。先斗町というロケーションが、なぜかしっぽりとはまっている。1人でフラっと行きたいバーの一つであるとともに、[クック]のラテンとはうって変わって、タコさんのニューウェーブなころのやんちゃ振り復活が何とも嬉しい。
京都市中京区先斗町通四条上ル 大黒ビル2F
※7[ネーネーズ]
島唄の名手であった古謝美佐子、吉田康子、宮里奈美子、比屋根幸乃の4人を知名定男がグループとして’90年に結成。沖縄音楽をワールドミュージックへと昇華させた。’94年にはヨーロッパ公演を行う。’95年末に古謝が抜け’98年、タルヴィン・シンが「O.K.」で大々的に彼女たちをフィーチャーし、世界のクラブでネーネーズの歌声が流れた。ネーネーズのサウンドプロデューサーが、ノーコメンツの佐原一哉であり。後に佐原と古謝は夫婦となる。
※8[どんと]
[拾得]や木屋町の[ナイトキャラバン]でスタッフをやっていた、お茶目な顔したギター小僧にして、ファンクやブルース、ロックンロールが大好きな兄ちゃんだったどんと。京都勤労会館であったNHKのヤング・ミュージック・フェス京都予選の応援に行ったこと、そして京都代表に選ばれたときなんとなく「これでどんとと会えなくなる」ように思ったこともよく覚えている。音楽的才能ということでは、大沢のほうが図抜けていたが、どんとはキャラのオーラは当時から凄かった。 http://www.songstar-donto.com/