KYOTO CLUB MUSIC SCENE 4

Late ’80s クラブという名を冠にしたコンテナが、
モダーンと繋がるとき。
ニューウェーブ・イズ・デッドとしての、
セカンド・サマー・オブ・ラブ

 ’80年代後半には、ニューウェーブ的なサウンドムーブメントやファッションの流れは、カウンターカルチャー的な側面がバブル景気によって崩壊していくことになる。昭和の終わりと平成バブルの一瞬の花火の前にニューウェーブももはやメインストリームか否か?と言われ、 カウンターカルチャーからある種の商業音楽への転換、はたまたストリートアートからファインアートへと時代は確実に動いていく、そんな頃。ディスコでは、アルマーニやヴェルサーチの服でずるずると躍っている輩ばかりで、パラパラの自然発生を前にユーロビートがけたたましく鳴っている状態であった。筆者はそんなメインストリームとは裏腹に、バンド活動から身を引き、一層アンダーグラウンドな音楽や映像へ興味を深めていった。’88年頃のことであるが、その時に 京大経済学部自治会のフロントサークル [ガラパゴス・カフェ]周辺の連中と遊ぶようにった。筆者はいわゆる鴨川左岸・同志社大(僕たちはパリのごとくそう言っていた)であったが[ロフトマン]&[ポール・スミス]の前を通って(ちょっぴりロンドンの香りを嗅いで)、しょっちゅう右岸へ出掛けていたものだ。その時の仲間が、現新潮編集長の矢野優氏、リミックス誌元編集長、若野レヴィン氏である。

 そんな僕たちがニューウェーブ・イズ・デッドとしてダイレクトに影響を受けたのが、セカンド・サマー・オブ・ラブ※15である。そんなレイブ・シーンからアシッド・ハウスが生まれ、レア・グルーブやダブ、ダンスジャズといったシーンからはその返礼としてアシッド・ジャズが生まれる。そこにいち早く向かったのが、沖野修也とその弟、好洋だった。カラス族やデザイナー&キャラクターなんて言われていたファッションから、ダッファーのニットにストレートの501ジーンズ、そして足下はグッチのビットモカシンz。モッズ~フレンチアイビー、そんなテイストをジャズやレイヴといったフィルターを通して見事に街的なセンスに取り込んでいた。彼らの前には、イタカジやイタリアン・モードのソフトスーツを着て自慢げにしている連中がどれほどダサく感じられたことか。ジャズで踊るというその文脈の一方で、セカンド・サマー・オブ・ラブを体感し、直球を投げていたのが[ビッグバン]でニューウェーブ・ナイトからレイヴへと進化させたDJ紀平直紀や、DJマメツカ(彼は、[フィッシュ&チップス][マシュルーム※16]という京都のクラブ黎明期を支えたDJの1人である)は京都にマンチェスター・ムーブメント的なハイエナジーを呼び込んだ。

 矢野氏、そして若野氏が東京に行き、筆者もまた大阪で編集者となった’89年。沖野修也[クラブ・コンテナ※17]のブッカー&セレクターとして、またセカンド・サマー・オブ・ラブの体現者として京都のカウンターカルチャー・シーンをリードするのである。
 不思議なもので、時を同じくテイ・トウワはニューヨークで[パラダイス・ガレージ]症候群ともいえる、N.Y.ハウスの熱にあたっている。ジャングル・ブラザーズやディー・ライトで彼が頭角を表すのと、沖野修也がKYOTO JAZZ MASSIVEを立ち上げ、世界を駆けめぐる礎を作るタイミング、はたまたロンドンとニューヨーク、京都と東京のねじれ具合は痛快といっていいくらいコインの表裏と感じるのは筆者だけだろうか? 

 そんな沖野の元に集まったのが、大沢伸一率いるMONDO GROSSOや、DJとしても評価の高いαステーションの藤本和也氏であった。また、このタイミングでロンドンへ向かっていた鼻のきく京都人は多い。フローティング・アイランド・ジャパンのスタイリスト遠山直樹氏(ミーツのファッションページを長いこと担当されていたスタイリスト&編集者)やアートディレクターの石倉氏(一乗寺のジーンズショップ[キャプテン]のスタッフでもあった)、沖野修也というか、KYOTO JAZZ MASSIVEのチャートをロンドンのニュージャズ誌ストレイト・ノー・チェイサーに掲載するために[コンテナー]に出入りしていた金牧子、[ノイズ]の藤田タロウ氏などもその口である。