KYOTO CLUB MUSIC SCENE 3

EARLY ’80s [HAKO]街場のスノッブな音者を
キャッチアップする、
ハコもまたユニークだった80’S。

 そうそう、ハコの話は[クラブモダーン]しかしていなかった。’80年代はそれなりに京都には面白いハコがいっぱいあったのも事実である。ライブハウスということでいえば、今でもあれは格好良かったな~と思い出すのが詩の小路ビルにあった[dee bee’s]※9である。細野晴臣プロデュースでデビューするこれまたファンク・テクノユニット、アーバンダンスのリーダーだった成田忍が店長をしていた事もある店で、筆者も数回カメラオブスクラというユニットでライヴをやったことがある。このカメラオブスクラは、現在デジタルナルシス※10代表で、実験的エレクトリックサウンドをドロップしている丸谷功二と、月刊SAVVY創刊時(’85 年)の読者モデルであった八木マリと組んでいたかなり実験的なニューウェーブ・グループだった。そうそう、アーバンダンスのパーカッションはゴンザレス鈴木のソウルボッサトリオで活躍する松本浩一であった。アーバンダンス繋がりでいえば、ゲスト・キーボードで参加していた森岡賢のリーダーユニットが、東京のソフトバレエ。ソフトバレエが京都でライヴをするときに、いつも一緒だったのが筆者のバンド、スピーキングファニチャーで、VOXビルの[ビッグ・バン]に出させていただいていた。我々はファンク系、テクノ系のニューウェーブだったのだけど、当時はJポップのハシリの頃で、東京からは米米クラブや聖飢魔Ⅱ、爆風スランプ、安全地帯などがやってきてライヴをしていた。その安全地帯のツアーでのキーボードが、EP-4の川島バナナだった。

 ハコの話しを続けると、銀閣寺前の[サーカスサーカス※11](後に[CBGB]となる、初期ローザやハープシもよくライヴをしていた)は、ヘタウマにして、ガーリーサウンドで世界中を席巻した少年ナイフがしょっちゅう出ていた。安田謙一がサポートしていたアマリリスなんかが対バンしていたと記憶する。安田謙一は、確かそのころ[ヴィレッジグリーン]の店員だったと、これまた記憶する。筆者とは、ちと路線が違う人だったが、レジデンツなどを紹介しするニューウェーブにしてユニークな存在としてそのころから有名だった。そして三条テラスビルのディスコ[チャイナ・エキスプレス※12]は、ニューウェーブ・ディスコとして、クラブとディスコの中間領域というか、ある意味、過渡期になった店である。ディスコとクラブの間という存在では、’90年代初頭にこれまた龍馬通りの東映跡に出現した[ディスコホールKYOTO ※13](初期KYOTO JAZZ MASSIVEも廻していた)も懐かしい。ディスコという冠が付いていたが、現在の[ワールド]にも通じるブッキングとハコのスケールで、京都の夜を賑わしていた。

 ’80年代前半に大きな影響を与えたハコとして、[ザ・シーン(後にアビレックス)]というのがある。確か五条富小路あたりにあった…と思うが、ロフトなスペースでライヴやダンスパーティを夜な夜な行っていて、ペンギンカフェ・オーケストラやUB40といった外タレニューウェーブのライヴはもちろんのこと、数多くの京都ニューウェーブのライヴを行っていた。筆者もしょっちゅう通っていた記憶があるが、1階には小さな雑貨店があり、後のクラブフェイム編集長、バッキーイノウエ氏が店長か店員をやっていた。そして、ライヴを行っていたフロアの上(2階というか…?)には、一時期京都の情報誌の先駆けとも言える、ペリカンクラブの編集部があった。確か’82~3年の頃である。

 ライブハウスやクラブではないが、北山和可さんが、[ハイカラ万華店]に続いて開いたのが、四条河原町下ルの[地球屋]、[シャンソニエ巴里野郎]と同じ場所にあった[マルディグラ※14]。ニューウェーブの最新の音源や和可さんがスタイリストの仕事で使った服や小物が店内に並べられ、気が向けば売ってくれるというそんなけったいな店であった。[まんぼ山本]と同じく冷蔵庫のビールやコーラは自己申告払いで店売りと同じ値段だった。

 そして、’80年代後半のニューウェーブ・グループ達の拠点として注目を集めるライブハウス+クラブが東山に登場する。[ウーピーズ]である。ブッキング・マネージャーを長年されていたエディ片山氏は、現在[片山洋品店]のオーナーとして、今なお街のおしゃれさんの相手をしているが、筆者と話しをしていると、酔った勢いで飛び出すのが、コーネリアスの小山田圭吾が所属していたロリポップ・ソニック(後にフリッパーズ・ギターとなる)が[ウーピーズ]に来たとき、彼らはミニ(もちろん当時は1000ccのO HCミニです)で東京からやってきた話。

 何はともあれ演奏よりもそのモッズ的なこだわりにびっくりしたという。そのロリポップ・ソニックを対バンに呼んでいたのが佳山シンゴが、後にカメラマンとなる中川アキラ(key)や、月刊SAVVY、ミーツの編集者となるMIHO(Vo)と組んでいたHYSTERICSだった。