ほんのひとときでいいんです

お2階カフェの居心地がいいのは
「お茶する」ことが、日常からの、
「ささやかな」「ほんの一時の」逃避であることを、
素直に自分に言い含めて、お茶ができるからだ。

第19回 2009年6月

F喫茶特集、カフェの特集は、よほどみんな保存して使っているのか? 未だにあれやこれやと記事のことをたずねられる。またそれは、京都の人は喫茶店が「ほんとに好きで好きでたまらないんだ」ということを、実感させてくれる。
僕と言えば、そんな喫茶店へ出向き、のんびりとお茶でも…という時間をとんと持てていないでいる。本音を言えば、コーヒーならスタバかマックで済ませてしまっている有様である。それも、ひとりで出かけて一気飲みしてすぐに出てくるのがオチである。でも、やっぱりカフェというか、お茶したり、ちょっと冷たいものでもしたり…という空間には、ついつい逃避行(自分ではフォーエバーといっている)しに出かけてしまう。
最近のお気に入りは「サラサ麩屋町PAUSA」や「カフェ・コチ」。ま、事務所のご近所さんということもあるんだけれど、なんというか、2階のちょっと目立たなさと、若いカップルが入ってきたら、自分の居心地が悪くなって「さて、仕事に戻るか〜」というモードにさっと入れるのがなんといってもいい感じなのである。
どちらも、2階から(席にもよるが…)外が見えるっていうのも何となくいい。特に雨の日は、1階よりも2階カフェが断然いい。雨との距離感というかね、そういったものの肌触り具合が、1階店だと靴の底に伝わってくるんだけれど、2階にいるだけで雨とのつきあい方もなんか恋愛小説風(すごく意味のある事なんだけれど、どうしてか棒読み…みたいな)のようだったりするから不思議だ。
きっと、そういうものは眺めというものへの身体感覚なんだと思う。

商店街にある家に長いこと住んでいた。その家は、いわゆる職住で、すでにその場所での商売はたたんでいたので、大学時代、そこには自分ひとりで住んでいたのだけれど、やはり2階からの眺めはなんともいえない哀愁が漂っていた。部屋と窓の間には廊下があったんだが、その廊下に椅子を置いてよく家の軒というか、商店街を眺めたものだ。よくお茶の世界で、縁側の庭と部屋との境界を論じる人がいるが、2階喫茶って、縁側でないのだけれど、なんかその「縁側感」があるような気がするのは僕だけだろうか?

「おにかいカフェ」がなんで最近増えてきているというか、いい感じなのか? を考えると(というか、そんな喫茶店が増えていて、自分も行っているのが笑えるんだけれど)、それは「お茶する」ことが、日常からの「ささやかな」「ほんの一時の」逃避であることを、素直に自分に言い含めて、お茶ができるからなんて言ったらタイソウだろうか?

だからというわけではないが、ちょっと小言を言うと、京都の多くの(しかも老舗と呼ばれる名)喫茶店が観光地化しているように見えて、どうも気に食わない。店がやかましいのは別段気にはならないのだけれど、そこの名物にありつくことが目的で、喫茶が目的ではない客と隣り合わすことほど不幸なことはない。「スマート」と「築地」の2階に平和な時間が戻ってきてほしいと思っているのは、僕だけではないと思うのだが…。

話は変わるけれど、2階だけでなく、いい意味で遅くまで開いているカフェというか喫茶店が多くなってきた感がある。せめて「夜バス」や阪急、京阪の走っている時間までは開いていてほしいもの。ある意味、そんなカフェは観光客ではなく地元のやんちゃな若い連中に愛され、店も長生きしていくと思う。

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街場の演算

肩の力を抜いて、自由に語ろう…、京の街と付き合うということを。 執筆、保伊戸 宵 (ほいと よい、袖岡保之)。雑誌ミーツ・リージョナル創刊に関わる。96年から10年間、副編集長。'06年、京阪神エルマガジン社を離れ、フリーに。17年間離れていた京都へ戻って京都CF!を中心に店ネタから人、音、街コラムを執筆。当コラム「街場の演算」は07年10月号から09年09月号まで22回にわたり掲載。08年より京都電通でコピーディレクター、10年 滋賀銀行CMで環境省 環境コミュニケーション大賞受賞。


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