Fantastic Plastic Machine 田中知之

PART118歳のディスコの皿洗いという事始めから
39歳の2005年、メジャーデビュー10周年
 原稿は何文字? 楽しいイベントに来て下さい、だけでえぇよ(笑)。元編集者らしいような、らしくないような…。要らん小言は必要ないんよ。後に続く本文を予想されたのだろう。だがそこは導いた本誌の責任であるということを予めお伝えしたい。
 まず聞いてみたかったのが彼の職業。何と呼べば良いのか? 『DJ、スラッシュ、プロデューサー?』って言ってますけどね(笑)。つまりDJ/プロデューサーコンポーザー、アレンジャーとか、そのへんは付随してくる仕事なので、基本的にはDJだと思ってます
 そのDJ氏が今年、メジャーデビュー10周年。’95年にリリースされたロマンチック’96というピチカートファイブのアルバムの中で、FANTASTIC PLASTIC MACHINEの名前で他人のアルバム内デビュー。何かの節目のイベントができたら良いなと思っていたので、今回の企画は非常にありがたいと思ってます。今月22日に開催されるFPM 10 KYOTO CLUB CIRCUIT 2005のことである。
 ’80年代後半から’90年代の始め、世間はディスコからクラブに傾いた。昭和41年生まれである彼の事始めはディスコでの皿洗いだった。物心がついて『踊る』っていったら『マハラジャ』。そこでDJの文化に触れた。まぁ音楽はずっと好きやったし、バンドもやってたし、高校の軽音楽部の顧問の先生がKBS京都で働いてた人で、KBSが捨てるレコードをいっぱいもらってくるんですよ。それを皆で山分けしたり。まぁ廃棄するレコードやから、ロクなのはないんやけど。それでも高校生の時にレコードを数持ってるっていうのは嬉しかった。バブルの絶頂期に貧乏学生がディスコの皿洗いやから、ロクな想い出はないけど(笑)。デビュー前の杉本彩とかが来てるわけですよ。でも僕らには何の関係もなかったから、祇園の辺りに行くといまだにしみったれた気持ちになる(笑)

PART 2嗜好と現実の中から生まれた
オールジャンルという革新性
 大学卒業後はアパレル会社に就職したが、レコードを買うことは止めなかった。就職したのが’90年、DJとして初ステージが’92年のメトロだった。まぁいわゆるオタクDJですね。ちょうどレアグルーヴというムーヴメントの中でジャズとかファンクとか、面白いものを見つけるのが盛んだった頃。当時はお金もないし、全てのジャンルのレコードをも買えるわけでもない。その中でサウンドトラックには元々オールジャンル感があって、ジャケットとかも含めて傾倒してた。今のリミックスという概念から考えても、ひとつの楽曲にボサノヴァやオーケストラや、色んなアレンジがあるし。’92年7月にSOUND IMPOSSIBLEと名乗って初めて自らが企画したイベントで200人ほどを集め、それからの4年間、オーガナイザー兼DJとして毎週木曜日にメトロでイベントを続けた。その中で音楽をつくるということに関して背中を押してくれる人と出会えたことで、自然と派生する制作の役柄としてFANTASTIC PLASTIC MACHINEと名乗るようになった。
 『メトロ』がなかったら他の場所で同じ事をやってたかなと言うが、当時はまだマサやん(メトロの初代店長・中村雅人氏。後のMONDO GROSSOのサックスプレイヤー)が店長で、人が気持ち良ぉレコード鳴らしてたらカウンターの中からサックス持って乱入してきたという(笑)。牧歌的だが実験的。その最初のイベントからVJを担当してくれたのが、工芸繊維大の先生をしてた伊藤弘や同じレンタルビデオ店のバイト仲間でバンド仲間というだけだったミルクマン斎藤。その後彼らはピチカートファイブのヴィジュアルを手掛けるようになるわけで、VJという呼び名や概念がなかった頃に、かなり先駆的な活動が自然発生的にできていたイベントだった。

PART 3味味香の冷やしカレーうどん!?
京都に感じる変化はそれぐらい
 そんな彼らを京都の宝としてリスペクトする者は多いが、京都発と呼ばれるフォロワーに当時ほどのうねりを今ひとつ感じない。そうやね、僕や大沢君や沖野君が希望の星かどうかは知らないけど。僕らもえぇ歳になっても頑張ってはいると思うし、若い子も頑張ってはいると思うけど、音楽業界的には厳しい時代でもあるからねぇ、難しいのは難しいのかな。反面、地方にいながらどんだけできるんや?というのもあると思うし。悪くなってるとは思わへんけどね
 それ以前に当時を思い出すのではなく、今がその続きだと思っている。では彼がたまに帰って見る京都は、進んでいるのか、止まっているのか、後退しているのか。違いは味味香のカレーうどんに冷やしができたぐらい(笑)。それぐらいの変化しか僕は感じてへんねんけど(笑)。京都は(学生が多いため)そもそも4年で人が入れ替わる。毎年新陳代謝してるでしょ。他の都市ではそんなに何万人の人がガッと入れ替わるってことはないだろうから。『ド貧民』のカード切るみたいな(笑)。それだけ新しいチャンスはあるんです
PART 4どう定義するかは難しいけれど
アカンと思う存在は大人たち
 ただ、京都は大人がアカンな。彼が一言だけ低いトーンを使った。何かもう凝り固まってて。若者は革新的にやってるんやけど、大人が薄情なんですよ。そう思うのは僕が下を育てるより自分でやった方が早いっていう世代だからなのかもしれない。僕は大人と呼ばれる人には今まであんまり面倒見てもらってないからかもなのか、出てきたヤツを潰すようなマネもしないかわりに、なかなか面倒も見ないかな。他の街にはいっぱい友達がいても京都で必ず会ったり飲みに行く友達は意外と少ない。とにかく京都は築く人間関係を大切にする気分が希薄。僕もそれは東京に出てきて学んだことで、それが照れだったり、奥ゆかしさと呼ばれるのかもしれないけど、東京で一日飲んでたらメールのアドレスが10件ぐらい増えたりするけど、京都行っても増えへんもんね(笑)。以前は僕もそうやったとは思う。『イカンなぁ』『?壁作ってんなぁ』と思ったもの。ここ5年ぐらいで新しい京都の友達なんて、『枝魯枝魯』の枝國君ぐらい。彼は社交家やしいい意味でミーハーやし(笑)。仕事終わってしんどくてもイベントに顔出してくれるのは尊敬できる。『行けたら行くわ』っていう『多分行かへん』っていう意味の言葉ね、アレは絶対京都弁(笑)
 それを自分が変えてやろうとは思わないのだが、キッカケになれば良いとは思う。それぞれの仲間でずぅっと順繰りにやってる、そういう安住を求める感性というのが京都にはあるからね。内輪だけで同じ店に毎日行く常連化みたいなね。京都の人は、東京の人が薄情やと思ってると思うけど、それは全く逆やから。京都ではものすごく内気なのか、逆に僕らも昔はそうやったように突っ張ってるのか。会っても目も合わさないぐらいやからね(笑)。東京の方が他業種とかジャンルとか関係なしに仲良し。ヒップホップであろうがジャズであろうが関係なくDJ全員仲良しで、組んだりするもの
PART 5このイベントを通して思うこと
横の風通しが良くなればいい
 新しい音楽、新しい友達、横の風通しが良くなればえぇんちゃうかな。今回東京から来てくれる出演者だって、普段肩組んで飲んでる友達やし。それを京都の人に見て欲しい。国際都市と言われながら、結局はイケズな人と揶揄される理由が、そこで解るかもしれない。
 自分の好きなものを信じることは素晴らしいが、排他的になってはいけない。こんなウルサイことばっかり言うたら誰も来てくれへんようになるやん(笑)。いえ、真意をお伝えすることは必要。定期的に帰ってくるのは、少なくとも京都を嫌いになったのではないということ。しかも、誰かを連れてきてくれる。それは彼の新しい友達で、我々にとっては新しい息吹だ。それを彼の郷土愛だときれいにまとめようとは思わない。
 東京か京都かという土地の違いは関係ない。CDセールスや年収が一流か二流かを決めるわけでもない。そもそも上下関係という概念がないのかもしれない。全ては友人関係。それが健全やと思ってるんですけどね。世代観的なものも含めて、それがいわゆる京都的ではないのだが、巷で言われる京都のパブリックイメージなどどうでも良い。そこに耳目を惹く価値が、必ずある。それは確認であったり、反省であったりするかもしれないけれど。
 このイベントに集まる演者や奏者を見て、ネームバリューに小躍りする必要は全くない。いち音楽家としての田中知之という人物の性格と好きな音と友達が解るだけ。これらのコメントの数々に我々が理解すべき、いや、感じるべきものがあると思うのだ。